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No.840 石ころのかたち

向田邦子「無口な手紙」(『男どき女どき』所収)という心惹かれるエッセーがあります。昔、人がまだ文字を知らなかった頃、遠くにいる恋人に自分の気持ちを伝える時に、石の大きさや形に心を託したといいます。男は、自分の気持ちにピッタリ合う石を探して、旅人に女の元へと言づてるのです。
 
尖った石なら、病気かしら?こころがすさんでいるのかな?とか、丸いスベスベした石なら、無事に穏やかに過ごしているのねと読み取って安心していたのでしょうか。誤解されることもあったでしょうが、推測し忖度するには、互いの心に通い合うものが無ければ成立しないやりとりでしょう。言葉はないのに、何とも雄弁な心の伝達術です。
 
自分の心を石に託して相手に悟ってもらう伝達法は、同じ向田邦子の「字のないはがき」(『眠る盃』所収)というエッセーとも重なります。終戦の年の4月、小学校一年の末の妹が甲府に学童疎開をすることになった時のお話です。
 
その時、父はたくさんのハガキに几帳面な筆で自分あての名を書きました。
「元気な日はマルを書いて、毎日一枚ずつポストに入れなさい。」
と渡すのですが、初めこそハガキにはみ出すほどの威勢のいい大きな〇だったものが、次の日から急激に小さくなり、ついには✕になってしまいます。妹はどうなってしまったのでしょうか?そして、家庭で君臨していた邦子の父は、母が迎えに行き連れ帰った妹に対してどうしたでしょう?その結末は、一読の価値ありとだけ申しておきましょう。
 
さて、「石文」について、「丹波新聞」(2009年4月30日)に興味あるコラムが載っています。日本映画『おくりびと』(2008年9月13日公開)に端を発したもので、考えさせられる内容です。
 
アカデミー賞を取った映画「おくりびと」に、主人公の納棺師が川原で妻に小石を手渡して、失踪した父から教わった石文(いしぶみ)について話すシーンがある。▼作者はこれを、向田邦子のエッセイ「無口な手紙」から採用したそうだ。それによると、人々が文字を知らなかった大昔、ツルツルした石やゴツゴツした石など、表面の感触で自分の状態、気持ちを表し、遠く離れた家族や恋人に人づてに送り伝えたという。▼「現代はしゃべり過ぎの時代。若い人の手紙は、字や文章だけでは男か女かわからない」と向田は評した。インターネットなど全くなかった30年前に。▼と思いきや、今度は漱石の手紙。馴染みの祇園芸者に「君の手紙は候文で堅苦しい。『そうどすえ』と言文一致で書きなさい」と書き送っているのだ(「河内一郎「漱石のマドンナ」)。「男ならちゃらちゃら書くな」。「女だてらにいかめしく書くな」。二人は一見、逆のことを言っているようで、実は同じことを裏返しているように思える。▼インターネットはおろか、電話もろくになかった時代、直筆の手紙は現在とは比ぶべくもない重みを持っていた。行間に目を凝らすことさえ再三だったろう。メールで好きなように何度でもやり取りできる我々は今一度、「石文」した人々のことを思い起こしてもいい。
 
久しく、手紙をものしなくなりました。スマホやメールやLINEのせいにするつもりはありません。それらにも行間に漂う送り主の気持ちを伺うことはできるのですから。しかし、手触りを感じられる肉筆の文字(絵)は、他の人には代えられない個性があります。指紋のような筆跡が、離れている人をグッと身近に引き寄せてくれるのかも知れません。「石ころハガキ」(両者のイイトコ取り?)なんてどうでしょう?
 
私の心の石ころの形は、あちこちに凹凸のあるジャガイモのようです。
あなたの石ころの形は、いかがですか?


※画像は、クリエイター・金継ぎ師guu.さんの、タイトル「ちょっと前の人生、ペンフレンドに会いに行く。」をかたじけなくしました。それぞれに心を感じます。お礼を申し上げます。