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No.1182 従軍看護婦の心

春のお彼岸の中日に、「思いよ届け」と書いています。

私の敬愛するS子お婆ちゃん(91歳)は、9人の兄弟姉妹(2男・7女)の7番目(六女)です。そのお姉さんのH江さん(三女)は、4年前に94歳で亡くなられたそうですが、半生記を残しておられました。太平洋戦争前後の家族の紆余曲折のお話を綴ったその中に、個人の話だからと埋もれさせたくないものがありました。S子お婆ちゃんのお許しを戴いて紹介する次第です。

「(…略)日増しに戦争がはげしくなり、私は卒業の春、召集令状が来た兵隊さんと同じように昭和18年の春、日本を離れ北支、太原陸軍病院に派遣された。日本赤十字従軍看護婦として、その頃私は最高の名誉と思い嬉しかった。女の子ばかりの〇〇家で兵隊に出る人もなく、両親はさぞ肩身の狭い思いをしているだろうと、親孝行が出来た。一生懸命頑張ろうと張り切って戦地に向かった。
 始めて外地に出て始めて泊まるホテル。夜中の1時だった。かなり大きなホテル、日本人経営のホテルだった。夜中だったが、夕食が出る。久しぶりおいしく食べてお風呂に入り3時頃床につく。疲れているためよく眠り、朝10時頃太原陸軍病院(今日より勤務する病院)に挨拶に行く。
 担当の病棟は第11病棟、一番新館の内科病棟で重傷と軽傷と入って全員120名位。又将校は伝染病の患者もいた。すでに勤務していた看護婦さんより申し送りを受けて、早速勤務に就く。夜勤は全部男の患者の中に看護婦2人だけ、しかも夜中交代で前夜一人、後夜一人。一人で120名の患者を見廻らないといけない恐ろしいのと不安で2人の夜勤者で一睡もせず2人一緒に勤務した事も度々だった。
 ある夜は重症の患者さんが2人も亡くなる事もあった。家族のない兵隊さんは淋しく一人で此の世を去っていくのが本当に可哀想だった。死ぬ時の殆どの兵隊さんが、お母さんと呼んで息を引き取る。日本に帰りたいと泣く兵隊さんは少なくなかった。志願で軍属として戦地に来て結核にかかり入院していた少年、16歳だった。彼は進行が早く、日に日に重くなり高熱が続き短い病床で息を引き取った時、自分を忘れて抱きしめ泣いた事。今も忘れることが出来ない。母親はどんな気持ちだろうかと。(略…)」

H江さんの半生記ノートより

私は、こみ上げてくるものを禁じえませんでした。H江さんのために、兵士たちのために、16歳の少年のためにも忘れてはならない反戦の思いを一層強くしました。

昭和51年(1976年)3月24日から同年7月11日までの間、折に触れて書き溜めたそのノートは、H江さんが51歳の頃のものです。戦後の30年の星霜が、過去を冷静に振り返らせ、伝えることの大切さに思い至らせたのだろうと思いました。
 
H江さんが亡くなられた後に息子さんがその遺品の中からノートを見つけ出し、活字に入力し直し、親戚の方々に配られたおかげで、私は知友を介して読ませてもらうことができました。その献身に心より敬意を表します。

H江さんが人生を反芻しながらノートをつづったあの日から、48年目の春を迎えています。その御霊の安らかなれと祈ります。


※画像は、クリエイター・感護師つぼ坪田康佑さんの、タイトル「医療系素材」のリカちゃんナース人形をかたじけなくしました。2人の従軍看護婦さんの姿が思い浮かびました。お礼を申し上げます。