No.612 半藤一利『歴史のくずかご』に学ぶ
1945年(昭和20年)8月15日の正午、玉音放送がありました。これは、「大東亜戦争終結ノ詔書」の玉音盤でした。日本のポツダム宣言受諾による終戦を国民に伝える目的で行われました。
しかし、正式に日本が降伏したのはそれから半月後、連合国への降伏文書が東京湾上の米戦艦ミズーリ号の甲板で調印された同年9月2日のことでした。それまで、交戦状態は続いていたのです。日本は無条件降伏をしました。
終戦前後の新聞報道について、小説家・高見順の8月19日の『敗戦日記』には、以下のように書かれています。当日の記事を全文紹介します。
「新聞は、今までの新聞の態度に対して、国民にいささかも謝罪するところがない。詫びる一片の記事も掲げない。手の裏を返すような記事をのせながら、態度は依然として訓戒的である。等しく布告的である。政府の御用をつとめている。
敗戦について新聞は責任なしとしているのだろうか。度し難き厚顔無恥。
なお『敗戦』の文字が今日はじめて新聞に現われた。今日までは『戦争終結』であった。
中村光夫君の話では今朝、町内会長から呼び出しがあって、婦女子を大至急避難させるようにと言われたという。敵が上陸してきたら、危険だというわけである。
中央電話交換局などでは、女は危いから故郷のある人はできるだけ早く帰るようにと上司がそう言っている由。
自分を以て他を推すという奴だ。事実、上陸して来たら危い場合が起るかもしれない。絶対ないとはいえない。しかし、かかることはあり得ないと考える「文明人」的態度を日本人に望みたい。かかることが絶対あり得ると考える日本人の考えを、恥かしいと思う。自らの恥かしい心を暴露しているのだ。あり得ないと考えて万一あった場合は非はすべて向うにある。向うが恥かしいのである。
一部では抗戦を叫び、一部ではひどくおびえている。ともに恥かしい。
日本はどうなるのか。
一時はどうなっても、立派になってほしい。立派になる要素は日本民族にあるのだから、立派になってほしい。欠点はいろいろあっても、駄目な民族では決してない。欠点はすべて民族の若さからきている。苦労のたりないところからきているのだ。私は日本人を信ずる。」
さて、その新聞社が反省を込めて取った態度を示すこんな例がありました。毎日新聞の西部本社(九州版)では、戦前から国民を煽りに煽った責任を痛感し、白紙で発行した事を作家の半藤一利は知り、調べたのでした。
8月15日…第二面白紙
8月16日…二面と一面の3分の一が白紙
8月17日…二面が白紙
この処置は、編集局長の高杉某が、
「戦争を謳歌し扇動した新聞の責任、これは最大の形式で国民にお詫びしなければならない」
「昨日まで鬼畜米英を唱え、焦土決戦を叫び続けた紙面を、同じ編集者の手によって百八十度大回転するような器用な真似は良心が許さない。」
との決意で実行した大きな賭けとも思われる新聞の発行でした。
そして、五日目の不完全新聞発行ののちに、西部本社の最高幹部は、職を退いたといいます。半藤一利『歴史のくずかご』(文藝春秋)に教わりました。高見順が「度し難き厚顔無恥」と評した誰かさんたちに心から薦めたい一冊ですが、ご存命の方はおられますまい。
作家の高見順は、時代に翻弄されながら「転向」し、波乱の人生を歩んだ人物です。しかし、戦後は小説家として作品を次々に発表し日本近代文学館の建設にも尽力しました。そして『敗戦日記』の記事から20年後の1965年に58歳で病没しました。平成の日本も令和の日本も見ることなく…。