No.1133 名もなき人
浅間山(標高2560m)は、群馬と長野の県境にある山で、今も火山活動を続けています。この山が、江戸時代中期の1783(天明3)年に大規模な噴火をしました。この年の5月9日から8月5日頃まで約90日間、山が鳴り、噴煙が上がり、火山灰が降り注いだといいます。
8月の初めには噴火が本格化し、高温の軽石や火山灰が火砕流となって山の斜面を猛スピードで流れ下りました。その結果、死者1、151名、流失家屋1、061棟、焼失家屋51棟、倒壊家屋130余棟という大惨事となりました。
特に被害が甚大だったのは、浅間山北側の群馬県鎌原村(現、嬬恋村鎌原地区)でした。火砕流や土石なだれにより埋没し、村人570人のうち実に477人(83.7%)も亡くなったといわれています。
今から45年前の1979(昭和54)年11月に、その鎌原村の発掘が行われました。そのことは、新聞記事になり、放送局の番組となり、単行本となって著されてもいます。
発掘調査で、村の小高いところにある観音堂へ続く15段の石段を掘り下げると、その下には更に石段が35段埋もれていたそうです。信じがたいほどの土石流で覆われていました。その最下段の場所で、背負う人と背負われる人の格好をした遺骨が2体発見されました。調査の結果、2体は共に女性で、背負った人は30~50歳、背負われた人は45~60歳で、お互いに血縁関係ではないことが判明しました。
発掘に当たった専門家や村の人たちは、岩なだれから逃れようとお嫁さんがお姑さんをおぶって必死に高台にある観音堂を目指したものの、途中で力尽きてしまったのではないかと推測しています。あるいは、同じ村人同士で逃げ遅れていた女性を見かねた人が背負ったのかもしれません。二人の鼓動が、必死の形相が見えるようです。物言わぬ物語です。
その後、鎌原村はイタリアのベスヴィオス火山の噴火遺跡になぞらえて「日本のポンペイ」と呼ばれています。鎌原村で運よく生き残れた91人(93人?)は、新しい家族を作り、子孫を増やして村を立て直し、2015年(平成27年)の国勢調査では1,968人(男1,013人 女955人)にも達していました。今は亡き2人の子孫もいらっしゃることでしょうか。
1782年7月の甲斐国(山梨県)天明の大地震(?)では、栗子の尊い心がありました。その翌年、1783年8月の上野国(群馬県)天明の浅間山大噴火では、無言の人の美しい心が埋まってありました。彼らの尊く気高い心が、生きた証となって雄弁に語りかけてくるのです。
※画像は、クリエイター・VINCENT2GBさんの、タイトル「吾妻山公園へ菜の花と水仙を撮りに行った話」の1葉をかたじけなくしました。お礼を申し上げます。