見出し画像

No.1348 800年前への誘い!

「たまきはる命をあだに聞きしかど君こひわぶる年はへにけり」
という冒頭の歌があることから『たまきはる』の名もあるこの作品は、『健寿御前日記』や『建春門院中納言日記』とも呼ばれます。
 
作者は、鎌倉時代前期、後白河院の妃であった建春門院(平滋子 1142年~1176年)にお仕えし、中納言とよばれた女房です。藤原俊成を父として1157年(保元2年)に生まれました。藤原定家の同母姉にあたり、名は健御前、女房名は中納言、出家後は九条尼と呼ばれました。定家の漢文日記『明月記』(1204年=元久元年、11月30日の条)には、父の俊成臨終の折の記述がありますが、そこに「健御前」(健寿御前)の名が見られます。
 
その『たまきはる』の中に、小督局(こごうのつぼね)のお話が出てきます。小督局は、平安時代末期に第80代高倉天皇(1161年~1181年)に仕えた後宮の女性です。『平家物語』巻六「小督」に詳しく、その経緯は、中宮・建礼門院(平徳子)自身が天皇に差し上げた女房だとあります。たぐい稀な美貌の持ち主であり、又、箏の名手であったからか、高倉天皇に見初められ寵愛されるようになりました。しかし、建礼門院の父・平清盛の怒りを察知し自ら姿を消してしまいます。

高倉天皇の悲しみは尋常ではありません。『平家物語』では、その後、高倉天皇が源仲国に命じて嵯峨辺りに小督を探させます。仲国が嵯峨の亀山あたりを訪ねると、かすかに箏の爪弾きが聴こえます。小督は「想夫恋」の曲を奏でていました。

♪峰の嵐か松風か たづぬるの人の箏の音か~(謡曲「小督」)
笛の名手の仲国は、すぐに得意の笛で応じ、何とか逢うことが出来ました。天皇の命令と仲国の説得で漸く宮中に戻った小督でしたが、高倉天皇第二皇女・範子内親王の母となったことが、清盛の逆鱗に触れ、出家させられてしまいました。23歳の若さでした。
 
その後の空白の小督の局の消息について、『たまきはる』(健寿御前日記・建春門院中納言日記)の中で、嵯峨で隠棲する彼女と再会したことを伝えています。建春門院(高倉天皇の実母)の女房であった健寿御前(建春門院中納言)は、1174年(承安4年)3月の高倉天皇の法住寺殿への方違え行幸の際に、内裏女房の小督と初めて面識を得ました。

 「山吹のにほひ、青きひとへ、えびぞめの唐衣、白腰の裳着たる若き人の、ひたひのかかり、すがた、よそひなど、人よりはことに、はなはなと見えしを、いまだ見じとて、人にとひしかば、小督の殿とぞ聞きし。このたびより物いひそめて、つぼねの、そなたさまなれば、下るとても、具してなどありしが、その後ゆくへも知らで、二十余年の後、嵯峨にて行きあひたりしこそ、あはれなりしか。」

(『健寿御前日記』玉井幸助註、P160~161、日本古典全書、朝日新聞社)

その時のひときわ目立って優れた容姿を手放しで賞賛している健寿御前ですが、初めて会った時は二人とも16~17歳の頃だったと研究者の玉井幸助氏は注しています。これ以後、何かと懇意にしていたものの、小督が宮中を去ってからは音信が途絶えていたのですが、20年余りも経った後に奇しくも京都右京の嵯峨で再会を果たし、若き日とはすっかり様変わりした風情に、「あはれなりしか」と深い感慨を覚えています。
 
人生を翻弄された小督の局ですが、幸せな時が訪れた事はあったのでしょうか?
 
鎌倉時代前期に成立した『建春門院中納言日記』(『健寿御前日記』)は、あまり知られていない作品ですが「平家物語の裏面史」のような面と、「後宮の多くの女房達」の生活の実態を知ることが出来る面と、何よりも宮中女房たちの装束や季節折々の着物とその色目等々の「服飾」の面で第1級の資料と言える際立った記述のあることが注目される作品だと思います。一度、手に取ってみてやってください。
 
今から800年も前のお話ですが、彼女たちの息吹と心が、生き生きと伝わってきます。


※画像は、クリエイター・odapethさんの「京都嵐山の竹林で撮りました。一筋の光!みたいな時に貼ってください。」という説明の1葉をかたじけなくしました。小督もこのような場所を歩いたことがあっただろうかと思いをはせました。お礼を申し上げます。