ありえたかもしれない人生
よく聞かれる「転職して後悔していない?」に対して、普通は転職しなかったパターンの人生を知る術はないのだけど、私にはシミュレーションの手段があるという話。でも、完全には一致しないので、その部分が個性の本質かもしれないという話。など。
「人生一度きり」を克服する方法
もはや手垢が付いた表現ながら、何度言っても言い過ぎることはないくらい「人生一度きり」は重要な真理である。「だから後悔しないように生きよう」という主張を込めることが多い。もしも「つよくてニューゲーム」のような裏技が使えれば、もっと賢い選択ができているのかもしれない。
読書に理由を付けるならば、他人の人生から学ぶことで「人生一度きり」を克服できる裏技という側面がある。よく言われることながら、改めて考えると高度な能力が必要となる。
まずは、物語に没頭して入り込むような「感受性」が無ければ、他人の人生を自分事として重みを持って捉えられない。一方で、時代背景も個性も違う人生から教訓を得るには、具象→抽象→具象へと「メタ思考」を働かせて読み替えねばならない。
1つ前の記事に関連して、自分ごとに引き寄せることとメタに考えることはバランスが難しい。
より直接的な対照実験
よりストレートに「ありえたかもしれない人生」を実感する機会があった。前職の後輩と話をすることがあって、彼と私は「対照実験」であることを意識した。
同じ高専から別々の地方帝大に編入して、最初の就職先が同じで、技術の専門もHCD/UXDへの関心も同じというように条件が揃っている。私が転職してから4年目で、彼とは年齢が4つ違うため、転職した時点の私と彼は条件がピッタリ合う。
私が「もし転職しなかったら」と考える時には彼を意識するように、彼が「もし転職したら」と考える時には私を意識する。お互いに、ありえたかもしれない人生のシミュレーションになっている。
同じ環境で違う判断をするのが個性かも
私は違う世界に飛び込むべく転職した。比較的にのびのびと仕事ができていながらも、得意技がそのまま活かせない苦労もある。
後輩は、最初の志を貫きながら、変わらず忙しく働いている。転職については何度も考えたと想像するが、なんやかんやで踏みとどまって活躍している。
同じような境遇であるのに、判断は異なっている。突き詰めれば、このような違が「個性」なのかなと思う。
居酒屋話ながら、自分がいま悩んでいる自分のクセなんかが、自分の名前(例えば、「哲也」なら知恵を愛する者みたいな意味)に由来している個性だという話がでた。名前は親が自分に込めた呪いで、今の生き方に影響する。環境や境遇だけでは逃れられないくらいの呪いだったんだ。
損失回避バイアスかもしれない
冒頭の話題にあった「転職して後悔していない?」に戻って。私は上に書いたようなシミュレーションを持っている。両方の人生に良いところ・悪いところがあることを受け入れているので、隣の芝に惑わされることは少ない。
と言うよりも、舵を切って新たに得た経験を活かして、器用仕事のように次の展望が見えればいいなと思っている。だから、いま後悔しているかは重要でなくて「後から良い判断だったと思えるように今を精一杯生きよう」という考えに近い。
とは言え、投資の世界で言われる「損失回避バイアス」みたいなことも意識する。つまり、自分は損しているのに「ここまで時間を費やしたのだから、失敗と認めたくない」という気持ちが働いて、抜け出せずどんどん時間を費やしてしまうことはないだろうか。
そんな疑いに対する自己弁論として、投資の世界だと判断の軸が「お金」しかないけれど、自分の人生が良かったかどうかを測る軸はもっと多様であることを持ち出す。以前の価値観では損失でも、異なる軸を持ち出せば幸せになっていると説明つくものを、何か1つくらいは探せそうに思える。
人生を変えるくらいの決断には、何があっても「良い決断だった」と思えるくらい、自分の軸を変える覚悟が伴うんじゃないか。この考えが「知恵を愛する」に由来する考えかは分からないけれど、何か自分に変化があるならば成長だと捉えていたい。
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