No.1326 ツカレナオース!
街に出たので、大分市立図書館で新聞を閲覧しました。
朝日新聞の「天声人語」(7月19日)に目が留まりました。
サンゴ礁の美しい南国の楽園、パラオ。パラオは、フィリピンの東方、ニュージーランドの西北方、西太平洋のミクロネシア地域に位置する 500 以上の群島からなる国です。正に「島」という意味のマレー語「プラウ」に由来するパラオです。
1885年にスペインの植民地となり、1899年にスペインからドイツへ譲渡されました。1920年、パリ講和会議によって、パラオは、第一次世界大戦後から第二次世界大戦で日本が敗戦するまで、日本の委任統治領となり、多くの日本人が住んでいました。そして、日本語教育が推し進められたのです。現在、「日本語の1,000語近くがパラオ語になっている」と言われています。
日本語由来のパラオ語の一例を、パラオ観光メディアマガジン「PALAU TIMES」(2021.02.22)より引用させて頂きました。
「キツネ」「ショウガナイ」「ダメ」「ムリ」「メンドクサイ」など所々に見られるサブリミナル効果(「刑事コロンボ」21話「意識の下の映像」で知った言葉です)とも思われる言葉は、日本人の精神をよくとらえているものであり、
「あの時代を決して忘れてはならぬぞ。」
と自戒するパラオの人々の反骨の符丁なのではないかと思います。
中島敦は、東京帝国大学を卒業後、1933年(昭和8年)4月より横浜高等女学校の教員勤務のかたわら執筆活動を続け、この年の12月には橋本タカと結婚しました。しかし、喘息の発作のために、1941年(昭和16年)3月末に女学校を休職しました。同年7月、温暖で喘息療養に適しているとの思いからパラオ南洋庁の官吏(教科書編修書記)となりました。
しかし、「天声人語」にも書かれていたように、パラオでの生活は中島の思っていたものとはかけ離れたものでした。その失意も手伝って、赴任からわずか半年後の1942年2月にはパラオから本土へ復帰します。彼にとって「ツカレナオース」島ではありませんでした。
中島の作家生活は、1942年(昭和17)2月に文壇デビューを果たしましたが、本格的な作家活動は、わずか1年足らずのことです。「山月記」(2月)「光と風と夢」(5月)「李陵」「名人伝」(10月)と、その作品の完成度の高さを考えると、作家魂が凝縮された奇跡の1年間と言えるのではないかと思います。高校時代に「山月記」を読み、その主人公・李徴に自らを重ね合わせ、深い感慨を覚えた方は多いのではないでしょうか?
ところが、病魔は、彼の小説家としての大成を阻み、同1942年12月、気管支喘息の悪化から東京世田谷の病院で亡くなりました。惜しまれてなお余りある、33歳の若さでした。
※画像は、クリエイター・ひかるん🌈ALLYES(アライエス)代表さんの、タイトル「【夢叶フェス台本公開】カミングアウト、その後」の1葉をかたじけなくしました。「オツカレー!」の元気な声が聴こえて来そうです。お礼申し上げます。