No.928 「心眼」ならぬ「心耳」の人
「五月雨や蠶煩ふ桑の畑」
松尾芭蕉(1644年~1694年)の句です。「蠶(かひこ)煩ふ」とは、病害を持った蚕のことだそうで、伝染すると大変なので養蚕農家ではすぐに病蚕を葬るといいます。ところが、それが生きていたのでしょう。しかも、五月雨(梅雨)の長雨の中です。生き永らえるすべは残されていないのですが、主食となる桑畑の中にいるというのが何とも皮肉で哀れに思われます。芭蕉の眼は、小さなものの命もすくいあげます。
その200年後に、俳人村上鬼城(1865年~1938年)が、こんな句を詠んでいます。暑くなると思い出す句です。
「夏草に這上がりたる捨蚕かな」
「捨て蚕(ご)」とは、病気に罹ったり発育不良だったりする蚕のことだそうで、野原や川に捨てられると言います。暑い中、捨てられた蚕が餌となる桑の葉ではなく、夏草の上に這い上がっているというのです。現実は絶望的な生の営みでしょうに、死んでなるものかと、必死に生きている小さなけなげな命が、悩みを持って生きる私たちに強く訴えかけて来るようです。鬼城の視点も又芭蕉のそれに似ています。
群馬県高崎市のホームページ「健康・福祉・教育」には、次のようにありました。
その鬼城には、「夏草の蚕」とは対照的な、こんな冬の句もあります。
「冬蜂の死にどころなく歩きけり」
すでに死期に近い雄蜂が、飛ぶこともできず、死に場所を求めて弱々しく歩いています。雄蜂の運命でしょうが、自分の姿を見ているように感情移入してしまう句です。不自由さの中にあって、鬼城の眼の向け方は鋭くて斬新です。
鬼城の生きものが出てくる好きな句を二つあげてみます。
「行く春や親になりたる盲犬」
「鹿の子のふんぐり持ちて頼母しき」
※画像は、クリエイター・cocoさんの、タイトル「【雨の日を楽しく】紫陽花撮影のススメ。」をかたじけなくしました。お礼申し上げます。