なくしたものの大きさを知る一年
「きのうはあすに」 中桐雅夫
新年は、死んだ人をしのぶためにある、
心の優しいものが先に死ぬのはなぜか、
おのれだけが生き残っているのはなぜかと問うためだ、
でなければ、どうして朝から酒を飲んでいられる?
人をしのんでいると、独り言が独り言でなくなる、
きょうはきのうに、きのうはあすになる、
どんな小さなものでも、目の前のものを愛したくなる、
でなければ、どうしてこの一年を生きていける?
「年賀欠礼状」が毎年20枚以上届く年齢になってしまいました。文言は、紋切り型なのですが、差出人である友人・知人の顔が思われ、その行間に愛情と無念の深さを感じてしまいます。
一休和尚は、いみじくもおっしゃいました。
「親逝く、子逝く、孫逝く」
この順番が、一番良いことなのでしょう。しかし、人の死が、安らかな気持ちで見送れるものばかりではないことも、非情なこの世は教えます。父を50代で亡くした後の祖父母は、見る見る老け込んで行きました。
今年は、中桐雅夫のこの詩が、より一層強く心に迫る一年でした。
「子供叱るな、来た道じゃ。
老人笑うな、行く道じゃ。」
浄土宗の信徒らしいとか、永六輔(『大往生』)が広めたとか言われているようです。
「子供叱るな来た道だもの、
年寄り笑うな行く道だもの、
来た道行く道二人旅、
これから通る今日の道、
通り直しのできぬ道」
の言葉もありますが、短かった元の句に脚色したような気さえしてしまいます。単純明快な短いフレーズが、ズキュンときます。
大好きな母を見送る寂しい年となりました。
新年まで、あと4日。