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No.1393 名もなき花の名をいひし初めの人は?

有名人の名言が紹介される事があります。しかし、歴史的な有名人のその言葉も、さて出典は何かというと記されていないことが多く、モヤッとしてしまいます。
 
「生きてるだけで丸もうけ」の言葉も、誰が言い始めの人だったのでしょう?
 
その言い始めの人として、愛媛県宇和島市の生まれで、「別府観光の生みの親」と称され、温泉保養地由布院の礎を築いた実業家・油屋熊八(1863年~1935年)翁の名前を挙げた数少ない中から、この人の記事を紹介したいと思います。少し長いのですが、興味深いので全文引用しました。

 生きてるだけで丸もうけ
 宇和島出身の油屋熊八のことは、「アトラス」という季刊誌を作っていたときに知った。熊八は別府で「亀の井ホテル」「亀の井バス」を創設した人で、数々の観光のアイデアを実行に移し、「別府観光の父」「別府の恩人」といわれるようになった人である。私は、宇和島の特集をするにあたって彼のことを調べようとしたのだが、当時宇和島市に熊八の資料はなかった。そこで別府市役所の観光課に電話したところ、担当者は親切にも2冊の本があると言ってそれを貸してくれた。別府市観光協会編の『油屋熊八伝』と、村上秀夫著『小説 油屋熊八』である。
 その本は面白かった。というより、熊八の生き方そのものが面白かった。米相場に手を出して失敗した熊八は、明治30年に単身アメリカに渡り、3年後に帰国すると、別府で旅館を営む妻のところに戻り、次から次と奇抜なアイデアを思い付いては実践した。有名な「地獄めぐり」を考案し、美人ばかりを集めた日本初のバスガイド嬢に歌入りで観光案内をさせたり、富士山に「山は富士 海は瀬戸内 湯は別府」の大看板を立てたりと、とかく人の度肝を抜くことをした。
 熊八の奇想天外な生き方は10年ほど前、別府温泉狂奏曲「喜劇 地獄めぐり」(※私注、2002年2月)という芝居になり大ヒットした。そのサブタイトルになったのが、熊八の口癖だった「生きてるだけで丸もうけ」という言葉である。実はこの後に「生まれない以上の不幸はない」というのが続くそうなのだが、私はそれを知ったとき、そう思えばなんでもできそうな勇気の湧く言葉だと思った。
 世の中にはいろいろな不幸な出来事がある。生きていても仕方がないと思う人もいるかもしれないが、つらさを味わった分だけ、小さな喜びにも幸せを感じるものだし、『苦役列車』で芥川賞をもらった西村賢太のように、これほどの不幸なら小説にでも書いてやろうくらいに開き直れば、生きているのも満更ではない。
 私も書く仕事をしていると、なかにはしんどさの方が勝り、あまり興の乗らないものもあるのだが、新しいことを知る機会をもらったと思うと、不思議といろいろな発見がある。物事はなんでも〝思いよう〟だと思う。

アトラス出版「中村英利子のつれづれエッセイ」より 2013.4.12

熊八は、1935年(昭和10年)3月に71歳で没しました。今から89年も前です。その彼の口癖を、さんまさんの師匠である笑福亭松之助(1925年~2019年)さんが何かの機会に知るところとなり、弟子のさんまさんに受け継がれたのかなと思ったりもするのです。

「草陰の名もなき花の名をいひし初めの人の心をぞ思ふ」(伊東静雄)
大岡信氏は、「折々のうた」で、

 詩人伊東静雄が作った珍しい短歌。詩集「夏花」(昭15)で透谷賞が与えられた時、さっそく祝いの歌を寄せた友人池田勉に対する返礼として書いたのはこの歌で、伊藤の書簡集の中に見える。自分の詩集を「草かげの名もなき花」に擬し、最初に祝いの言葉をかけてくれた、つまり「名」よんでくれた人への感謝を下句で告げているわけだが、そんな事情を離れて読んだ方がかえって味わい深い歌として読めるようである。

「折々のうた」より

と述べています。その作歌事情はわかったとして、純粋にこの歌を解釈した時に「草陰に咲くこの花に最初に名をつけたのは、どこの誰のどんな思いからだろう?」という素朴な疑問を感じさせる歌です。

「生きてるだけで丸もうけ」も、最初に言った人は誰なのだろう?と言うささやかな疑問に応えて下さった中村英利子さんのエッセーに、モヤッとからスッキリとさせて頂いた次第です。


※画像は、クリエイター・岩田耕平|直島フォトグラファー|Naoshima Photographerさんの、タイトル「続、別府・鉄輪温泉の湯けむり写真ギャラリー50枚(2021年5月撮影)」の1葉をかたじけなくしました。お礼を申し上げます。