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No.674 雁も上々吉も来たれ!

辺秋、一雁の声。白露の候となり、葉末にむすぶ朝夕の露が白く光る。シベリアやカムチャッカからそろそろ雁が渡ってくるころだ。先日、陸中海岸で雁を見たというハンターの話をきいた。雁は夜だけ飛ぶ。たがいに鳴きかわしながら、いまごろは、どこの月夜の海をわたっているのだろうか▼津軽半島に伝わる「雁風呂」の話は、ご存じの方も多いと思うが、心やさしく、またあわれ深い伝説である。雁は遠い北国から海を渡るとき、木の枝を口にくわえて飛ぶ。疲れると枝を海に落として、その上で羽を休めるという▼秋、津軽半島にたどりつくと、必要なくなった枝を海に落とし、翼をつらねて日本列島をさらに南へ向かう。山を越え、谷を渡っても、力つきておぼれ死ぬ心配は、もうない。日本で越冬し、早春に津軽に戻る。そのとき自分の落とした枝を見つけ、またこれをくわえて北に帰る▼雁の群れが去ったあと、海辺に残された枝の数は、死んだ雁を意味する。狩人に撃たれたものもいよう。小さな枝は、子雁かも知れない。村人たちはこの枝をひろい集め、それで風呂をたいて雁を供養する。これが「雁風呂」の言い伝えである▼口にくわえていた枝の上で休めるほど、雁の目方は軽いのだろうか。そうしたせんさくをはじめる人は、空想の美しさを知らぬ手合いであろう。津軽には、藩の御料林への立ち入りが許されず、日々のタキギにも事欠いた人々がいた▼だから海辺に打ち寄せた木片は、海水を吸ってもちがよく、またとない贈り物だったという。春三月となり、厳寒をたえぬいた村人たちは、北に帰る雁の鳴き声をききながら、枝をひろったにちがいない。そうしたきびしい風土と貧しさであればこそ、この珠玉のような悲しく美しい民話を生んだのであろう。(1973年=昭和48年9月16日の朝日新聞コラム「天声人語」深代惇郎執筆より)

秋、シベリアから約3,000kmも渡って来る雁は、小枝をくわえて飛び、海に浮かべて翼を休め、陸に着くと浜辺に枝を落とし、翌年の春、北帰する時、再びその木の枝をくわえて飛んで行くと言います。木の枝が残ると、その分の雁が死んだのだと考え、村人は哀れみ、その枝で風呂を沸かして供養をしたそうです。荼毘に付した煙が天高く届くようにとの意味も込められていたのでしょうか?「雁風呂」の伝説は、先の深代準郎のコラムによって一躍脚光を浴びました。
 
その翌年の1974年、サントリーウイスキー角瓶のCMにも採用されたお話のもとになったのが、このコラムだろうと思っています。作家、山口瞳が夜の浜辺で焚火にあたりながらウイスキーを口にして、
「あわれな話だなあ。日本人って不思議だなあ。」
とつぶやくシーンが、私の中に強く印象付けられています。
 
「今日からは日本の雁ぞ楽に寝よ」
この句は、江戸時代後期の俳人・小林一茶(1763年~1828年、65歳没)が48歳から56歳までの9年間にわたる句日記『七番日記』の中に載っています。青森県津軽半島北東部にある外ケ濱で降り立った雁を詠んだ句だとされています。
 
「どこから来たのかは知らぬが、嵐に遭い、天敵に襲われ、病気で倒れもしただろう。だが、この日本にやって来たからには、もう心配無用。安心してゆっくり休みなさい。」 
中国とのやり取りが盛んになった800年ごろの奈良時代に、すでに「日本」と呼ばれるようになったと考えられているようです。江戸期には、「日本」の言葉が庶民に俳句で詠まれているという事実も面白く思われます。何よりも悲運の人生を歩いた小林一茶という人の、生き物に対する「まなざし」の優しさ清らかさに感動してしまうのです。ロシアから寒さを逃れてやって来るこの秋は、紛争もあり例年以上の思いを抱かせます。
 
コロナ禍にあらゆる方面で改革が迫られて丸3年目の秋を迎えました。少し気は早いのですが、来年こそはスカッとした気分と青空で、元日から羽根つきや凧揚げをし、家族親族うちそろって円居をしたいものです。
「元日や 上々吉の 浅黄空」小林一茶
「浅黄」は「浅葱」の当て字で、青色に近い藍色は胸がすく色です。1825~1826年ごろの作だということですから、200年も前の句です。

雁よ来い。上々吉も来たれ!

※画像は、クリエイター・How'sitgoing?つながるイラストさんの、タイトル「12/31 挿絵」をかたじけなくしました。希望に向かって飛ぶ雁の群れが象徴的に描かれています。お礼を申します。