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No.252 「大地」の徳ある父子

 終戦後の8年目に生まれた私です。
 「お前は、橋ん下じ生まれたんを拾われち来た子じゃあ!」
 子どもの頃、悪さをすると、そんなふうに爺ちゃんから「せがわれた」(大分弁で「からかわれた」「いじめられた」)ことがあります。「生みの親より、育ての親!」などと割り切れるわけもなく、ひどく不安にかられた遠い記憶ですが、このドラマを観て思い出しました。

 7月19日から毎週月曜日の夜に、1995年(平成7年)のNHK大河ドラマ『大地の子』が再放送されています。
 「日本人戦争孤児で中国人の教師に養育された陸一心。肉親の情と中国への思いの間で揺れる青年の苦難の旅路を戦争や文化大革命などの歴史を背景に壮大に描く大河小説。」
とは、番組の告知文です。日中共同制作という予想外のビッグな企画が叶い大きな反響を呼びました。あの放送から四半世紀を経た今、涙の枯れることのない自分を再発見しています。

 先日、ビデオ録画していた『大地の子』「第5部・長城」を見ました。
日中共同声明後、日本との関係改善を図る中国は、最新の鉄鋼プラントを東洋製鉄に発注します。東洋製鉄には、一心(上川隆也)の実父・松本耕次(仲代達矢)が勤めており、松本は戦中の中国での経験や語学力を買われ、工事責任者として上海に赴任したのでした。同じく、一心も日本語ができる技術者ということで職長から選出され、プロジェクトにかかわります。折りも折り、養父の陸徳志(朱旭)が、役人から呼び出され、日本人残留者の肉親捜しが始まっており、一心が該当することを告げられます。残留孤児とはいえ、実の子以上の愛情をもって一心を育てていた徳志にとって、日本の肉親捜しの話をする事に強いためらいがありました。

 徳志は、一心を万里の長城に誘い、晩唐の詩人・汪遵の「長城」をそらんじて、自らの思いを込めました。
 長城  汪遵
秦築長城比鉄牢、
蕃戎不敢逼臨兆。
焉知万里連雲勢、
不及堯階三尺高。

秦長城を築いて鉄牢(てつろう)に比す、
蕃戎(ばんじゅう)敢えて臨[氵兆](りんとう)に逼(せま)らず。
焉(いずく)んぞ知らん万里連雲の勢(いきおい)、
及ばず尭階(ぎょうかい)三尺の高きに。

秦の始皇帝は鉄のように頑丈な長城を築き、
さすがの匈奴も臨兆の街に近づくことはできなかった。
だが、はるかかなたの雲まで届きそうな万里の長城は、
あの聖主である堯帝(ぎょうてい)の宮殿のわずか三尺の高さの階段にも及ばなかった。

 堯帝とは、中国の史書『十八史略』(五帝)にある「鼓腹撃壌」(こふくげきじょう=天下太平で安楽な生活を喜び楽しむさま。)の中で述べられている古代中国を治めた伝説の皇帝のことです。その宮殿は実に質素で、土の階段は、わずかに三尺の高さでした。それでも、堯帝は徳をもって国を治めた人物だと慕われ尊敬されています。

 一方、秦の始皇帝は「万里の長城」(現在、全長8851,8kmとか)を築き、権力で国を統一しました。ところが、彼の死後(紀元前210年)、たちまち国内で反乱がおこり、国はわずか15年で滅びたといいます。彼の残した偉業は数々あるようですが、権力に身を任せ、民への徳が足りなかったという戒めを詩に詠んだのです。

 義父の陸徳志は、愛情あつき育ての親として、一心の肉親捜しを頑として拒否することも出来たでしょう。そう主張すれば、素直に従う心優しい一心であることも想像できたと思います。しかし、それは、一心の本音を無視した親のエゴに外なりません。それでは、万里の長城を築いた権力者の心と同じになってしまいます。「徳の心」こそ一番大事なものなのだと、自分自身に言い聞かせるために口ずさんだ七言絶句だったのではないでしょうか。まさに「徳に篤い志」を持った義父・徳志なのです。よくできた名前。この話にもその漢詩にもいたく教えられ、「徳」を考え直す回となりました。

 再放送は、8月16日(月)「第8部・密告」「第9部・父と子」、8月23日(月)「第10部・冤罪」「第11部・長江」を残すだけとなりました。最終話、ネタバレになりますので片目を閉じて読んでやって下さい。

 日中の鉄鋼プラントプロジェクトが終了して、一心は、義父・徳志の勧めもあり、松本耕次と父子水入らずで、三峡下りの旅行に出かけました。長江を下る船の上で、松本は一心に日本へ来て一緒に暮らさないかと話します。日本と中国の二人の父の真実の愛に一心の心は揺れ動きますが、一心は苦悩の末、涙ながらに「私はこの大地の子です」と答え、中国に残ることを決意するのです。「大地の子」とは、恩讐の中国で希望をもって生きることを決意した言葉だったのかも知れません。

 日本で生まれた「大地の子」は、数奇な運命に弄ばれながらも、どんな苦境にあっても、けっして自分の心を失わない強い人でした。今後の生き方を象徴するかのような…。