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No.1255 そういう気?小右記!(2)

以下は、『ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 小右記 藤原実資 倉本一宏編 』(角川ソフィア文庫、令和5年7月25日初版)の恩恵によって成したコラムです。

藤原道長と言えば、「この世をばわが世とぞ思ふ望月の…」の歌の作者として知られます。その根拠となる出典が、この藤原実資の漢文日記『小右記』です。寛仁2年(1018年)10月16日の条に見ることができます。倉本先生の現代語訳で該当箇所のみのご紹介ですが、とても興味深いお話なので、お付き合いいただければ有り難く存じます。

今日は女御 藤原威子を皇后に立てる日である。(中略)
太閤(藤原道長)が私(藤原実資)を招き呼んで云ったことには、「和歌を詠もうと思う。必ず和すように」ということだ。答えて云ったことには、「どうして和さないことがありましょうか」と。また云ったことには、「誇っている歌である。ただし準備していたものではない」ということだ。「この世をば我が世と思う。望月が欠ける事も無いと思うので」と。私(実資)が申して云ったことには、「御歌は優美です。お答えする方法もありません。一同は、ただこの御歌を誦えるべきでしょう。元稹の菊の詩に、(白)居易は和すことなく、深く賞嘆して、一日中、吟詠していました」と。公卿たちは私の言葉に賛同して、数度、吟詠した。太閤は和やかになり、特に和すことを責めなかった。夜は深く、月は明るかった。酔いに任せて、各々、帰った。(前述『小右記』P474~P475より)

実は、『小右記』の一般的な古写本(前田本)は、ひどい焼損を受けており、歌は「望月乃虧」の部分しか残っていないと言います。幸い、前田本が焼損を受ける前に新写本が写されていたために全体の本文や和歌の全貌を知ることが出来たのだそうです。運命的です。
 
この復元された本文を読む限り、太閤(道長)は「和歌を詠まんと欲す。必ず和すべし」と実資に言いました。「何ぞ和し奉らざるか」、必ず和し申し上げましょうと実資は答えていますが、「誇りたる歌になむ有る。但し宿構に非ず」つまり、「誇った歌だが、前もって準備してきた歌ではない」と前置きしてから、
「此の世をば我世とぞ思ふ望月の欠けたる事も無しと思へば」
と詠んだというのです。この一連のやり取りが、歌の性格を物語っています。

ところで、「和す」とはどんな意味なのでしょう。広島大学学術リポジトリに、柚木靖史氏の「平安・鎌倉時代における『和す』の意味用法」の論文があります。「和す」とは、『和訓栞』・『雅言集覧』に「返歌を詠むこと」の例があることをあげ、結論として「詩や和歌に相応じる」意であるとしていました。道長は実資に「返歌すること」を望んだようです。

しかし、この時、実資は「御歌、優美なり。酬答する方無し。満座、只、此の御歌を誦すべし。」と道長の歌をヨイショしました。「道長様の歌の素晴らしさに圧倒され返歌が出来ないから、皆で道長様の歌を唱えようではないか」と提案したのです。本当に道長の歌に敬意を覚えたのか、返歌する気にもなれない歌に辟易したのかは分かりません。ただ、そうすれば、返歌しないでも済みますものね。

出席者たちは「此の世をば…」の歌を何度か唱えたそうです。そうしたら、「太閤、和解し、殊に和するを責めず」という態度をとりました。道長は、実資が返歌しなかった事を不満に思っていたのでしょうが、皆が自分の歌を何度も歌うので気を良くしたのかも知れません。「返歌しなかった私を責めなかった」と実資は言います。心のドラマをそこに観ます。

この「望月の歌」は、長い間、政治の実権を握っていた道長が、我が身の栄華や権勢を誇って詠んだ思い上がった句だという評価を受けて来ました。道長自身が「誇りたる歌になむ有る」と言っている訳ですが、最近の新解釈は、この旧来の説に異を唱えています。

京都先端科学大学人文学部の山本淳子教授は、「このよ」は、「この世」と「この夜」を 掛けた詞 として理解し、「この世をば 我が世とぞ思ふ」は「今夜のこの世を 私は心ゆくものと思う」と解すべきではないかと考えたのだそうです。だから、「この世はすべて自分のものだ」という解釈ではなく、「今夜は本当にいい夜(月)だなあ」と、当日の夜の月の美しさを愛でた歌だったという新解釈を提示されたのです。

山本淳子教授の新解釈は、「英雄たちの選択」の中でもご自身が話されていたように記憶します。私が引っかかるのは、道長自身が「誇りたる歌になむ有る。但し宿構に非ず」と自ら口にしていることです。その言葉が、実資の創作でないとするなら、「誇りたる」が月夜の素晴らしさを褒めた意味に解釈できるか否かという点が問題視されてもよさそうですが、不明です。議論の余地があるかもしれないなと、門外漢のくせに勝手に思ったりしています。
 
それにしても、9歳年下の藤原道長は、1028年に62歳で病没したそうですが、信仰心の厚かったという『小右記』の筆者藤原実資は1046年まで90歳という寿(いのちながし)を得たのです。なんだか、フフンな印象を持ちました。


※画像は、クリエイター・糊口屋さんの「月を撮影しました」の1葉です。藤原道長も観た月が、陰りなく美しく夜空に佇んでいました。お礼申し上げます。