No.1147 恕とSKT
鏡では見られても、実際に自分の後ろ姿を見ることはできません。
きのう、私の後ろ姿は何かを訴える表情をしていたのでしょうか?
「私でよかったら行きましょうか?」
急に後ろから声がしました。振り向くと、職員室の3学年の机の列の一角から女先生がにこやかな笑みを浮かべていました。私が授業交換か、自習監督をお願いするために、先生方の授業の配時板を調べていた時のことです。
なかなか授業交換の相手が決まらず、どなたかに自習監督を依頼するしかないかと思いかけた、まさにそのタイミングだったので、「以心伝心」というか「阿吽の呼吸」というかに驚かされたのです。
「えっ、お願いしてもいいんですか?」
私の後ろ姿があまりに「しぐれていた」、いや「しおれていた」ために、見かねて声をかけずにはおられなかったのでしょうか?いやいや、実はそうではなく、ひとえに、女先生の気配り心配りの鋭さのゆえだったのだと気づきました。困っている人がいるぞ、と…。
面倒、厄介なことなら黙って見過ごせばよいのでしょう。わざわざ買って出る必要はないのです。しかし、女先生は、そんな面倒をいとわぬ心と忖度の気持ちを持っていました。偶然にも、昨日、あの時、あの場所に居合わせたからこそ気づいてくれ、「自分でよければ」と声をかけてくれたのです。
弟子の子貢から「生涯を通して守るべき言葉は何か」を問われた孔子は、「恕」(思いやり)だと答えたそうです。私よりも20歳も若い女先生のその「恕」に感謝し、甘えさせていただきました。
私は、今や「親(S)切に 心(K)打たれる お年(T)頃」です。
※画像は、クリエイター・tohrudcさんの「黒板」の1葉をかたじけなくしました。お礼を申し上げます。