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No.1361 良心とは?

昨日の朝ドラ「虎に翼」(120話)で、寅子の上司の多岐川幸四郎が亡くなりました。彼のモデルだったのは「家庭裁判所の父」と呼ばれた宇田川潤四郎さん(1907年~1970年)だそうで、家庭裁判所設立や戦争孤児救済に奔走した人物です。

その滝藤賢一さん演じる多岐川幸四郎が登場した「虎に翼」(第52話)は、3か月前の6月11日の放送でした。ヒロインである寅子の恋の相手役でもあった佐賀の花岡悟判事の死について、多岐川は寅子と言い争いになりました。

多岐川は、言うのです。
「君たちあのバカたれ判事の同期なのか。法律を守って餓死だなんて、そんなくだらん死に方があるか?」
寅子は反論します。
「そんな言い方あんまりです。撤回してください」
多岐川は、歯に衣着せずやり返します。
「撤回なんてするか。人間、生き残ってこそだ。この中にヤミ米を食わなかったやつがいるか?つまり、そうしなければ生きられなかったということだ」
と自分の主張を最後まで曲げません。寅子は、
「私も彼の死に納得はしていない。でも花岡さんは悩み抜いてあの決断を……」
と、なおも食いさがりますが、多岐川は、
「やめだ!やめ!この議論は平行線だ。君も正しい、俺も正しい。それでいいだろ。ケンカほど時間のムダはない。」と話を打ち切りました。スッキリしない後味の悪さでした。
 
シナリオ作家も演出家も、多岐川の主張に自らの意見を重ねたのでしょう。しかし、私は、法を遵守し、命を賭してまで守り抜いた彼の思想が、
「法律を守って餓死だなんて、そんなくだらん死に方」
と評されたことに、割り切れない思いをずっと持ち続けていました。
 
俳優で歌手の岩田剛典さんが演じた花岡悟判事とは、山口良忠判事がモデルだそうです。1913年(大正2年)に佐賀県杵島郡白石町で生まれました。京都帝国大学法学部を卒業。大学院に進み1938年(昭和13年)に高等文官試験(司法試験)に寅子こと三淵嘉子(旧姓、武藤)と同じく合格しています。

以下の多くは、ウィキペディアからの情報によるものです。お礼とお断りを申します。

山口さんは、1942年(昭和17年)に東京民事地方裁判所に転任後、1946年(昭和21年)に東京区裁判所の経済事犯専任判事となりました。その部署は、主に闇米等を所持したために食糧管理法違反で検挙・起訴された被告人の事案を担当していたそうです。

食糧管理法違反で起訴された被告人を担当し始め、配給食糧以外に違法である闇米を食べなければ生きていけないのに、それを取り締まる自分が闇米を食べていてはいけないのではないかという思いは、誠実で愚直な人であればあるほど強く感じ取ったことでしょう。1946年(昭和21年)10月初めごろから闇米を拒否するようになったといいます。

そして、1947年(昭和22年)8月に地裁の階段で倒れ、9月に最後の判決を書いたあと、故郷の白石町で療養することとなりました。東京の職場を離れ、まるで肩の重荷が取れたように配給以外の食べ物もよく食べるようになったといいますが、同年10月11日に栄養失調に伴う肺浸潤(初期の肺結核)のために33歳で死去しました。

死後20日ほど経った11月4日に、山口判事の死が朝日新聞で報道され、話題を集めました。この事件の反響として2つの意味で社会に大きな影響を残したことを「ステラnet」の「教えて!清永解説委員」の中で説明しています。
「1つは、国民に『おとなしく法律を守っていたら生きていけない』と実感させたことです。国が取り締まる闇の食糧を食べないと、死んでしまうことが証明されてしまったわけですから……。
一方で、そうまでして法律を守った裁判官への尊敬の念が人々の胸に沸き起こりました。このニュースを知って、裁判所に卵を持ってきた人がいるという話も残されています。」

当時は裁判官の地位が信じられないほど低く、ヤミ物資を買うにも十分な給与があるとは言い難い状態であったといいます。そのため、複数の裁判官が栄養失調に苦しんでいたといわれており、実際に過労や結核に栄養不足が加わって死ぬ者も少なくなかったそうです。

さらに、裁判官の給料だけでは、到底、家族全員が食べていける状態ではなかったため、弁護士に転職する者が非常に多くなっていったことが、個々の裁判官の負担をますます重いものとしていたとも言われています。

一方で、「ステラnet」の「教えて!清永解説委員」には、こんな意見もありました。
「さらに、この事件によって裁判官の処遇も一気に改善したそうです。要は、裁判官や検事の月給が上がるきっかけになった。それを『山口さんのおかげである』と書き残している当時の最高裁幹部もいます。
また、その後も裁判官の不祥事が明らかになるたび、法律を守って命を失った山口判事の清廉さは長く語られてきました。」

妻・矩子さんの回想によれば、山口判事は、生前以下のように語ったといいます。
「人間として生きている以上、私は自分の望むように生きたい。私はよい仕事をしたい。判事として正しい裁判をしたいのだ。経済犯を裁くのに闇はできない。闇にかかわっている曇りが少しでも自分にあったならば、自信がもてないだろう。これから私の食事は必ず配給米だけで賄ってくれ。倒れるかもしれない。死ぬかもしれない。しかし、良心をごまかしていくよりはよい。」

山口判事の奥様の矩子さんは、画家でもありましたが、彼の死後、子どもを育てながら長く東京家庭裁判所の調停委員を務めたそうです。その功績により1981年5月、藍綬褒章を受章しました。その翌年の1982年(昭和57年)に他界されたと知りました。夫の山口良忠没後、35年目のことでした。
 
なお、当時、食糧管理法を遵守して餓死した人物として、山口判事の他に、東京高校ドイツ語教授・亀尾英四郎氏(1945年没、50歳)、青森地方裁判所判事・保科徳太郎氏(1947年没、48歳)の名も伝えられていることも知り、ご紹介申し上げたく思いました。

このような法律を守ることによって死を招くということは、法律そのものが問題であり、国家の大きな損失を国家自信が生み出したという轍を二度と踏まないで欲しいものです。

闇米を食べながら違反者を堂々と罰することの出来た判事の名前を知りませんが、山口良忠判事が妻に語った真実に、私は一市民として深く同情し、畏敬の念を持ちました。


※画像は、クリエイター・かちこ🌻漫画家/イラストレーターさんの、タイトル「虎に翼 私に花江」の1葉をかたじけなくしました。お礼申し上げます。