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No.1066 「ほ」の字

11月17日(金)韓国時代劇「ホ・ジュン」(再放送、BS日テレ)の最終回が放映されました。途中から見始めた番組でしたが、ホ・ジュンのブレない生き方、心医として志を全うする人生哲学に惚れました。師匠のユ・ウィテ医師のひと言ひと言が薬以上に効きました。
 
ホ・ジュン(許浚、1539年~1615年)は、朝鮮王朝の第14代王・宣祖(1552年~1608年)の時代に実在した医者です。『東醫寶鑑』(1613年刊行。朝鮮第一の医書として評価が高く、中国・日本にも流布)の著者として知られている人物です。その名医のテレビドラマ化されたヒューマン物語です。
 
1539年(1546年?)、武官の父と両班の庶子の母の間に生まれた。
1569年、儒者の顔の腫れ物を治し、その名を知られるようになる。
1574年、内医院に入ったとされる。
1587年、王の病気の快復に貢献して鹿皮(虎皮?)を賜る。
1590年、恭嬪の第2王子・光海君の重病を救ったことで昇進する。
1592年、「壬辰倭乱」(文禄の役)により宣祖が都を捨て平壌、義州まで逃げ落ちる。
1597年、「丁酉再乱」(慶長の役)が起きたが、秀吉の死によって日本軍は撤退した。
1598年、戦争は終結したが、二度にわたる戦火のために国民も国土も疲弊した。
1608年、3月に宣祖が逝去。御医としてその死の責任を問われて流罪となった。その地で中断していた『東医宝鑑』の編纂にあたる。
1609年、11月に赦免されて内医院に戻る。
1610年、完成させた『東医宝鑑』を光海君に献呈。
1615年、行年76の生涯を閉じた。
 
ドラマの中(第60話だったか?)で、反対派から御医ホ・ジュンと女医イェジンの関係を誹謗中傷され、イェジンが宮中を去り、三寂寺(サムジョク)に帰ることを決意した日に、
同僚のサンファに聞かせた唐代の詩人・李商隠(813年?~858年?)の詩があります。これには、やられてしまいました。
 
無題(書き下し文)
八歳にして倫(ひそ)かに鏡に照らす、長き眉已(すで)に能(よ)く画く
十歳にして去(ゆ)きて青を踏み、芙蓉もて裙衩(くんさ)と作(な)す
十二にして筝(そう)を弾くを学び、銀の甲(つめ)曾(かつ)て卸(おろ)さず
十四にして六親(りくしん)に蔵(かく)る、懸(さだ)めて知る猶未だ嫁がざるを
十五にして春風に泣き、面を背(そむ)く鍬韆(しゅうせん)の下
 
無題(口語訳)
 8歳の時 こっそり鏡をのぞき見て 眉を長くひきました
10歳の時 蓮の花の刺繍の服を着て 山菜を採るのが好きでした
12歳の時 玄琴(コムンゴ)を習いました いつも琴爪を離しませんでした
14歳の時 なぜか男の人が恥ずかしくて 両親の後ろに隠れました
15歳の時 わけもなく春が悲しくなりました ぶらんこの綱を握ったまま顔を背けて泣きました

「昔、ある春の日に、ある方を見てから、わけもなく春が悲しくなったわ。その方を想うたびに、切なくて胸が痛んだ。」
 
イェジンは、そう言って叶わぬ片想いの心を、この詩にそっと寄せていたのでした。ホ・ジュンに思いを告げられず、さりとて、傍に寄り添って甲斐甲斐しく医療の手伝いも出来ず、遠くへ去って行かねばならない己の切なくて苦しくて悲しい胸の内を詩に託したのです。脚本家のチェ・ワンギュという人物の感性に恐れ入りました。
 
そして、最終回でも、大変印象的なシーンがありました。
山陰の山上で、女医のイェジンが愛おしそうにホ・ジュンが眠る盛り土を撫でます。連れの十代の女の子がイェジンに質問する場面です。
「誰の墓ですか?何をしていた方ですか?」
「私がずっとお慕いし尊敬していた方、お医者さま。」 
「あの方は、まるで地中を流れる水のような方だった。太陽の下で名を馳せることはたやすいわ。難しいのは人知れず地中を流れ、人々の心を潤すことよ。それができる方だった。心から患者を慈しむ心医だったの。」
「イェジンさま、あの方はあなたを愛していたんですか?」
「それは分からないわ。私が死んで地に返って、水になって再会したら、その時にぜひ尋ねてみたいわ。」(完)
 
しみじみとした余韻が胸を打つラストでした。イェジンのもの静かで、控えめな中にあって、芯の強い口調が余計に観る者の心に迫ってきます。私にとっては、「ほ」ジュンでした。


※画像は、クリエイター・彩流(さいりゅう)❤️asunaga🦘さんの、「美しく幻想的で厳格な雰囲気を漂わせているソウルの中和殿」の1葉です。お礼申し上げます。