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No.1475 ♪ 今を春べと咲くやこの花~

「百人一首」は日本の正月の風物詩の一つです。家族で楽しまれましたか?

平安時代を中心に、その前後の時代まで含めた歌人を中心に百人を選び、おおむね古い時代から新しい時代へと並べた歌集です。長く藤原定家の編集と考えられていましたが、田渕句美子氏は、『百人秀歌』が定家撰、『百人一首』は鎌倉時代中期以降に後人の誰かが手を加えて編纂したものだという定説を覆す見解を示され、一石を投じています。

さて、ネットの「AIの概要」によれば、
「百人一首には、6組の親子が取り上げられています。そのうち、源経信と俊頼、俊恵の親子は、百人一首に和歌が選ばれています。」
とありました。

えっ?本当に?と思って数えてみました。歌番号の若い順に並べてみると、
1番歌 父・天智天皇  2番歌 娘・持統天皇
12番歌 父・僧正遍昭 21番歌 息子・素性法師
13番歌 父・陽成天皇 20番歌 息子・元良親王
22番歌 父・文屋康秀 37番歌 息子・文屋朝康
25番歌 父・藤原定方 44番歌 息子・藤原朝忠
30番歌 父・壬生忠岑 41番歌 息子・壬生忠見
40番歌 父・平兼盛  59番歌 娘・赤染衛門
*ただし、赤染衛門の父は、赤染時用の説もあり。
42番歌 父・清原元輔 62番歌 娘・清少納言
45番歌 父・藤原伊尹 50番歌 息子・藤原義孝
55番歌 父・藤原公任 64番歌 息子・藤原定頼
56番歌 母・和泉式部 60番歌 娘・小式部内侍
57番歌 母・紫式部  58番歌 娘・大弐三位
71番歌 父・源経信  74番歌 息子・源俊頼
74番歌 父・源俊頼  85番歌 息子・俊恵法師
*祖父・経信、父・俊頼、孫・俊恵の関係でもある。
76番歌 父・藤原忠通 95番歌 息子・大僧正慈円
79番歌 父・藤原顕輔 84番歌 息子・藤原清輔
83番歌 父・藤原俊成 97番歌 息子・藤原定家
99番歌 父・後鳥羽天皇 100番歌 息子・順徳天皇
となりました。親子関係に異説のあるものや、親・子・孫三代(源経信・源俊頼・俊恵法師)にわたる関係もありましたが、それらも「親子」として別々に数えると18組あるように思います。誤りがあれば、ご指摘下さい。
 
面白いのは、親子で対にして並んでいるのは、18組中の3組(16,7%)のみでした。
1番(天智天皇)と2番(持統天皇)
57番(紫式部)と58番(大弐三位)
99番(後鳥羽天皇)と100番(順徳院)がそれです。最初と最後の天皇の親子で体を成した事への意図はありそうですが、そのほかの親子についての並び方には、何か、説得力のある理由はあるのでしょうか?
 
去年の大河ドラマ「光る君へ」の中で紫式部と娘・賢子(後の大弐三位)との関係が、大変興味深く演じられていました。その藤原賢子(ふじわらのかたこ・けんし)について、面白い歌があるので、読んでやって下さい。
 
賢子(999年?~1082年?)は、母の紫式部同様、一条天皇の中宮彰子に仕えました。越後弁(えちごのべん)と呼ばれたのは、祖父・藤原為時(949年前後?~1029年前後?)が越後守(1011年~1014年)だったことに拠るのでしょう。父の藤原宣孝(?年~1001年)は賢子が3歳の時に急死しました。母の紫式部は新しい夫を持とうとしなかったので、祖父・為時の元で成長しました。
 
ところが、賢子が15歳の時に母・紫式部は40代で他界(実際は、1014年没説~1031年没説まであり、没年は不明)し、彰子のもとに出仕しました。和歌が巧みで評判となり、藤原道長の次男・頼宗や藤原公任の長男・定頼(小式部の内侍にちょっかいを出したために、「大江山いく野の道の遠ければまだふみも見ず天橋立」の歌で返り討ちに遭い、男を下げた人物)など、摂関家の貴公子に愛されたそうです。
 
賢子の婚姻については諸説(『紫式部日記全注釈 上巻』(萩谷 朴、角川書店、昭和46年、P115に詳しい)あるようですが、道長の兄・藤原道兼(「光る君へ」では、賢子の祖母にあたる、紫式部の母を殺めた男として描かれた)の次男・兼隆(985年~1053年)の妻になった後、高階成章(990年~1058年)と再婚したそうです。寛徳2年(1045年)後冷泉天皇の即位とともに賢子は従三位に叙されており、夫の成章は天喜2年(1054年)大宰大弐に就任しています。「大弐三位」は彼女が50代半ば以降の呼称だったのです。
 
母親ゆずりの文才に恵まれていたので「狭衣物語」や「源氏物語」の「宇治十帖」の作者ではないかという説もあります。家集に『大弐三位集』(『藤三位集』)があります。83歳頃に亡くなったと言われています。
 
その『藤三位集』(大弐三位集)に、賢子と祖父・為時のこんな歌の贈答がありました。

    としいたくおいたるおほぢのものしたる、とぶらひに
   (ひどく年老いた祖父・藤原為時が訪問して来た、その慰めに)
34 のこりなきこのはをみつつなぐさめよつねならぬこそよのつねのこと
 (木に残り少ない木の葉を見ながら、心を慰めてください。葉が散るように無常なのが、この世の常なのですから)
  返し(返歌)
35 ながらへばよのつねなさをまたやみんのこるなみだもあらじと思へば
 (長生きをすると、世が無常である様子をまた見ることになるのでしょうか。私にはもう流す涙もないと思うのに) 

『新編国歌大観 第三巻 私家集編Ⅰ(歌集)』(角川書店、昭和60年、382項)

為時が生前の歌ですから1029年以前の歌、今から1000年前の祖父と孫のやりとりです。孫からの老いへの優しい気づかい、祖父からの生きることへの諦観が心に染みてきます。「光る君へ」という大河ドラマを見ていたから、余計に胸を熱くするのかもしれません。
 
О・ヘンリーの『最後の一葉』のようなドラマはありませんが、レオ・バスカーリア博士の『葉っぱのフレディ』にも似て、「老い」や「死」を考える契機となっています。木の葉に人生の哀感や老いの姿を投影するのは、私も同じです。今日も散歩で木の葉を見るにつけ、人生のあれやこれやの場面を観照することになるのでしょう。


※画像は、クリエイター・Sumiko K @アルゼンチン⇔北海道さんの、タイトル「【ぼちぼち往復書簡】どきっ、わたしもう古いのか(笑) From すみこ」の1葉をかたじけなくしました。「落ち葉の上に降る初雪」を切り取った1枚です。お礼を申し上げます。