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No.1256 たまきはる命

長い引用でゴメンナサイ!それでも、読んで戴ければ有り難く存じます。  
 
それは、60代後半の山上憶良(660年?~733年?)が、人生の晩年を前に詠んだとされる長歌とその反歌です。『万葉集』巻五、804・805の「世間(よのなか)の住(とどま)り難きを哀しめる歌」は、今の私にダイレクトに響き、ピンポイントで迫ります。困ったもんです!


現代語訳でのご紹介です。
「世の中の住みにくいことを悲しむ一首と序
 とかく集まりやすく払いにくいものは、八大の辛苦であり、成し遂げにくく尽きやすいものは、人生百年の悦楽である。このことは、昔の人の嘆いたところであり、今の世の人の嘆きもまたこれに同じである。そこで、一章の歌を作って、白髪の生えてきた老いの嘆きを払いのけよう。その歌とは…。
804         世の中で 特にどうしようもない物は 年月の 流れ行くことだ。 くっついてぞろぞろ 追って来るものは さまざまに 押し寄せてくる。 娘たちが 娘ぶろうと 韓玉(からたま)を 腕に巻いて (又は 「真っ白な 袖を振りあい 紅色の 裳(も)を長く引き」という句がある) 仲間たちと 手を取り合って 遊んだろう その花の盛りを とどめきれず 過ごしてしまうと 蜷(みな)の腸(わた)のように 黒い髪に いつの間に 霜が降ったのか 紅色の(又は 「朱のような」)面(おもて)の上に どこから 皺が忍び寄ってきたのか (又は 「絶え間なかった 微笑みも眉つきも 咲く花のように 変わり果ててしまった 世の中とは こんなものらしい」)。 若者たちが ますらおぶろうと 剣太刀を 腰に取り佩(は)き 猟弓(さつゆみ)を 手に握り持って 赤駒に 倭文(しず)の鞍を置き その上に 身を伏せるようにして 狩りしてまわった 人生が 絶えずありえたろうか。娘子(いらつめ)の 寝屋の板戸を 押し開き 探り忍び寄って 玉のような 手をさし交し 寝た夜が いくらもないのに 手束杖(たつかづゑ)を 腰にあてがい あちらに行けば 人にいやがられ こちらに行けば 人に嫌われ 老人とは こんなものらしい (たまきはる) 命は惜しいが なすすべもない。 
反歌
805         常盤のように こうありたいと 思うけれど 世の定めだから とどめることもできない
 神亀五年(728年)七月二十一日、嘉摩郡で決定稿としたものである。筑前国守  山上憶良」
 
660年前後に生まれた憶良は、神亀3年(726年)に筑前守に任じられ、天平5年(733年)の頃に亡くなったと言われています。今から1300年前の人物の「老人観」ですが、今の私たちと何一つ変わらないのではないでしょうか?彼らも「老い」を切実に感じ、おそれ、「なすすべなし」と限りない悲しみを抱いていたように思われます。
 
往時の青春時代と、今の老年時代を対比させながら「生きる事」「老いる事」「命ある事」を振り返った絶唱のような歌です。それは、これから先をどう生きるのかの答えのない問でもあったのかもしれません。憶良の素直な老境の感慨が、私の背中をたたくのです。
 
ところが、そうは歌いながらも、憶良の作歌活動は六十代の半ば頃に本格化し、七十を過ぎても衰えることがなかったと研究者は言います。ただ老境をボヤいているのではなかったようです。生への執着心。的外れを恐れずに言うなら、それは、歌にかける情熱であったのかもしれません。

「憶」には「おぼえる。思い起こす。心にとめる。」
「良」には「好ましい。優れる。めでたい。実に。」
などの意味があります。山上憶良の名前の由来を知りませんが、その名を意識しながら生きようとした人のように思われてなりません。

※画像は、クリエイター・銀さんの「春日大社の一角。」の1葉です。時の流れを感じます。お礼申し上げます。