No.373 毎日楽しみにしている1,000字前後の連載小説
「仁の音」No.132で紹介したことがありますが、丹羽文雄(1904年~2005年)は、100歳まで生きた長寿の小説家です。戦争や宗教者、恋愛など幅広い題材を扱いました。そのために「風俗小説」などと呼ばれたこともあります。生涯著作数は、500冊を優に凌ぐ多産の作家としても有名です。日本文藝家協会の理事長や会長の要職を務め、1977年(昭和52年)には文化勲章も受賞した文化功労者です。
当時は、万年筆による手書きの原稿だったでしょう。生涯に13万枚もの原稿用紙を書いたといわれます。指先を使い、頭を使うだけでなく、頑健な身体を持ち、ゴルフも良くする社交的な小説家でした。しかも、作家としては珍しく酒をあまり嗜まなかったと言います。さらに、80歳の頃まで原稿を書き、ちゃんと締め切りを守ったと言いますから、丹羽文雄は、およそ、ボケとは無縁の人のように思われました。
ところが、それだけ指先を使い、頭を使い、身体を動かし、日々多くの人々と交流してきた「切れ者作家」の丹羽文雄が、1987年~1990年にかけて、アルツハイマー病を発症したのです。人それぞれと言ってしまえばそれまでですが、私には「呆け防止」の一つの神話が崩れたように思いました。凡人には、身震いするくらい怖い実例でした。
その丹羽文雄を甲斐がいしく介護したのは、料理研究家の娘(本田桂子)さんでした。彼女には、『父・丹羽文雄 介護の日々』という著書もありますが、不幸にして父親より4年早く病没してしまいます。その彼女の残した言葉に打たれるのです。
「父は、何事にも『ありがとう』を口にする『感謝教の教祖様』と呼びたくなるほどでした。」
「観音様に近づいているようでした。」
きっと、可愛い観音様だったことでしょう。
そういえば、最近始まった重松清の新聞連載小説「はるか、ブレーメン」の中にも、似たような表現がありました。「はるか、ブレーメン」は、主人公の小川遥香(高校2年生)が、定年世代の息子(村松達哉)と認知症の母(村松光子)の「人生の走馬灯」に描かれる場面を探しながら成長してゆくお話です。大分合同新聞では10月24日から連載開始となり、私は切り抜きをしながら読み進めています。同じ連載小説が「日本海新聞」(鳥取県)や「山口新聞」などでは、8月1日から始まっていることを知りました。
その「はるか、ブレーメン」の第36話は、初めて村松親子(母と息子)が希望して遥香の家を訪れた場面が描かれています。息子の達哉さんは、名の知れたソフトウェア開発会社を経営しています。40年前に、遥香の家の元住人だった母親の光子ですが、今は認知症に罹っていました。無表情で虚空の一点をじっと見つめる母親のことを、
「最近ときどきお地蔵さんになるんです」
と達哉さんは説明しました。
「いまはちょっと無愛想な顔ですけどね、少し笑うと、お地蔵さんみたいな穏やかな顔になるんです」
と言ってお母さんの手の甲をそっと叩きます。それに呼応するかのように、かわいいお地蔵さんが笑顔になるのでした。
人は、認知になると「観音様」や「お地蔵様」のようになれるものなのでしょうか。これも又、「人それぞれ」であって、「夜叉」や「修羅」のような表情になっていくものでしょうか。自分のことが分からないまま形作られてゆく表情ですから、自分ではいかんともし難いわけですが、聊かオツムの回転に誤差が生じ始めた私にとって、「はるか、ブレーメン」が、心の救世主になってくれることを祈るような気持ちで毎日読んでいるのです。