No.1325 答えなき問い
「カルネアデスの舟板」とは、紀元前2世紀ごろの古代ギリシアの哲学者・カルネアデスが出題したという「思考実験」の問題だそうです。
「船が時化で難破した時、乗組員は全員海に投げ出された。一人の男が命からがら、壊れた船の板切れにすがりついた。するとそこへもう一人、同じ板につかまろうとする者が現れた。しかし、二人がつかまれば板そのものが沈んでしまうと考えた男は、後から来た者を突き飛ばして水死させてしまった。男は罪に問われるか否か?」
結論は、「罪に問われない」ということでした。尤も、現代の法解釈は存じませんが…。
松本清張は、この事件にヒントを得て小説「カルネアデスの舟板」(「文学界」昭和32年8月)を発表しています。私は、『松本清張 短篇総集』(講談社、昭和46年4月発行)で初めて読みました。お楽しみいただければと思います。
では、次のお話はどうでしょうか?
『今昔物語集』の巻19第27話「住河辺僧値洪水棄子助母語」(河辺に住む僧の洪水に値〈あ〉ひて子を棄て母を助くる語〈こと〉)は、こんな興味深いお話です。
究極の「二者択一」は、「平安時代版カルネアデス」とでも言いましょうか。母と子の命という極限状況の中で、僧は「子はまた儲けることが出来ても、母はこの世に一人しかいない」という価値観で母を選びます。尤も、子どもも後で人々から助けられましたが…。
紀元前7世紀から6世紀ころに生きた釈迦は仏教を開き、紀元前6世紀から5世紀にかけて生きた孔子は儒教の祖と言われます。この仏教と儒教との影響関係の有無はどうなのでしょうか?
仏教には、儒教的な「年長者を敬え」という基本的な教えはなく、むしろ「命は平等」だと説くといいます。その解釈は合っていますか?ところが、儒教では「仁」や「忠」や「孝」を重んじ、長幼の序などは、特に大事にされる考え方です。ある意味、仏教の世界に儒教の精神が取り込まれ、流れ込んだことから、僧の言動を尊ぶような解釈に繋がっていったのでしょうか。一方的ではなく、相互に影響し合っている可能性も十分に考えられますが、説得力のある話が出来るほどの根拠を持ちません。スミマセン。
極限の話や究極の話は、現実味がないとお叱りを受けるかも知れません。しかし、日本は古来より、大地震、大津波、大飢饉、大火事、豪雨台風、疫病ほかの大災害に見舞われ、血の涙を流しても足りない選択を迫られた人々が、どれほどいることか。決して「他人事」としていてはいけないのだと思います。
昨日、16時43分ごろ、宮崎県日向灘(震源の深さ30km)で震度6弱(マグニチュード7.1)の地震が発生しました。隣県である大分県は震度4でしたが、長い横揺れが続き、いつ孫を抱いて飛び出そうかと身構えたほどです。予兆もなく、唐突にやって来た地震の前に、アタフタし、オロオロするばかりではならないと思いつつも、己のふがいない態度をまたしても思い知らされた次第です。
古典のお話に、様々な思いを抱きながらも、答えなき問いかけに窮しているところです。
※画像は、クリエイター・NPO法人あおぞらさんの、「『ふく』と松本清張作品集(=^・^=)💖」の1葉をかたじけなくしました。読書猫(家)ですね。お礼申し上げます。