漂流するこころ 3
三、夢のつづきを、誰かが知っている
叔母の眠りが永遠の眠りに変わるまでに
私にはしなければならないことがある。
叔母から預かった鍵は見たこともないような鈍色
何度も失くしかけては私の手元に戻ってくる汕頭刺繍の白いハンカチーフに包んで
この黒いバッグの底にある。
夜を抜け
朝露を散らして
叔母の家にたどり着いたのは
正午を少し過ぎたころ。
モッコウバラの咲く庭の木戸を乱暴におし開け
ラベンダーの根っこに躓きそうになりながら
勝手口のドアーの鍵穴に鍵を差し込んだ。
鈍色の鍵はカチリと符牒を合わせ、ドアーは静かに開いた。
かすかに叔母のオーデコロンの香りが鼻腔をくすぐる。
黴の香り、寂しさの余韻、涙、きらめく光、ブランディー、いろんなものが混ざり合う
まるで叔母の体内のように感じる。
叔母の願いはただ一つ。
ライティングビューローの引き出しの奥深くしまいこんだ、色褪せた封筒を誰にも分らぬように燃やしてほしいということだ。
ビューローは叔母の寝室の一番奥に置かれている。
叔母が結婚したときに父親が家具職人に頼んで作らせたもので、読み書きが得意な彼女には最高の贈り物だった。
大きな引き出しが三段その上に小さな引き出しが真横に二つ並び、その上の斜めになった蓋を開くと蓋はテーブルとなり、蓋で覆われていた部分が本棚のように仕切られていた。
その本棚のすぐ下に小さな引き出しがひとつ。
叔母の秘密がそこにある。
けれども、叔母の手紙はすぐに見つかった。
あっけないくらいすぐに。
手紙を掴んで引き出しを閉め、蓋を元通りにするとき、何かがその蓋の間から転げ落ちた。
遮光カーテンの隙間から漏れる陽光に
一瞬きらりと輝いて、真昼の暗闇の中へ滑り落ちた
それは
ちいさく細い金の指輪。
転がる指輪を追って
リビングまで行くと
不思議な光景が見えた。
部屋の真ん中に一本のリボン。
ビロードのような輝きの
黒く光る長いリボン。
その黒いリボンは部屋の端から、リビングの食器棚へと続いている。
食器棚のガラスが少し開いていてリボンはその中へと吸い込まれるように続いている。
ガラスの隙間から
ボヘミヤガラスの砂糖壺へと続いている。
そこではっきりとわかった。
それは蟻の描く道だった。
驚きと恐怖。
くっきりと描かれた黒い光沢のビロードのリボンの上に私はそのまま倒れこんだ。
どれほどの時間が経ったのか。
その眠りの中で私はすべてを知った。
その封筒の中身も。
叔母の心も。
眠る私の前で封筒から手紙を取り出し誰かが読んでくれる。
前略
ごめんください。
何度も何度もお手紙をと思いながら、決心がつかず今日になってしまいました。
これは最初で最後のお手紙になろうかと存じます。
あなた様のお心を思うとき、わたくしはいつもどうして良いものか、どんなに考えても考えても答えが出ませんでした。
信様とわたくしの間には、ただの一度の過ちもありません。
なぜ、こんなことになってしまったのか。誰にも分らないのかもしれません
強いて言えば、戦争があなた様や信様、わたくしやわたくしの夫、すべての運命を狂わせたのだと思います。
信様が夫の眼鏡を持ってわたくしの家に来られてから今日まで、戦地で夫から頼まれ、その死を看取ったというだけで、戦友だったというだけで、ずっとわたくしを支えてくださったのです。
わたくしの家には決して泊まらず、上がり框の小さな板の間に起居し、それでも立派な銀行員でいらした。
来る日も来る日もただ待ち続けるだけの日々であったような気がします。
愛を探す人です。
全てが報われず、戻ることもできず、進むこともできない。
ぽっかりとあいた大きな穴を埋め続ける事でしか生きる意味を見出せない
そんな日々の中、一度だけ、信様の笑顔を見たことがございます。
見てはいけないものを見た気がしました。
その笑顔を奪ったのは、わたくしでしょうか。
運命というものは抗えないもの。
わたくしたちはみな愛を探す旅人なのかもしれません。
わたくしの罪と言われるなら甘んじてそれを受け入れます。
わたくしはただ波間を漂う瓶の中のこころになりましょう。
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