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私は何者か、371
noteにおける読みのなかで、不思議と言葉がほぼ同日くらいの間合いや、また、互いに知らぬ過去のそれと被っていたり、世の中の事象とは別の、同じような経験や心象を得たりしていることがある。私の場合、特に、対象者が少ないということもあり、嗜好や考え方の癖がどちらかといえば似ているのかもしれない。
タイトルゆえ、読み飛ばしていた方の文を本日読み進めたところ、「ガリレオ」の語句に驚いた。2月に書かれたもので、わたしは5月にその語句を使っている。意図はないが、何となく読み難く、とばしていたその文の中の接点と言わせていただけるなら、そのことを、驚きとともにみつめる。その不思議のわけをわたしのみならず、誰もここに教えてくれる人はいないと思うのである。偶然という、それこそひとの作り出した便利な言葉で凡そを整えていくしかないのかもしれない。けれど、わたしはそれでいい。私は私のお庭の浅くちいさな水溜まりにただ留まるのみなのだ。そのなかでさえ、やがて名も知らぬ虫の幼虫や、小さな浮き袋を持つ魚や、水草、そして、その水面に映り込む空。水面を揺らす風。自分の想像が誰がためのものか。自らが生きる上で少しでも楽に過ごせるように、最低限の生き物である限りの日々を啄んでいるのだから。
読めば、苦しみも伴う。
抗うということの、じぶんらしさ。
読むことは、そのまま、そのすべてを、飲み下すことであり、血となり肉となるか、消化不良で体外へ吐き出されるか。また、いつか、涙となってその睫毛を濡らし、苦悩となってその髪をうねらせるか。仕立てのいいスーツとなって、更に己のプロテクターを強化するか。
雨は降り、植物は育つ。
雨は止み、わたしの水溜まりは淡い夕焼けを映す。
わたしは何者か。