私は何者か、383
行きたいと言えば、行こうかと。彼。
京都、六波羅蜜寺。
空也さまに会いに。
御口から南無阿弥陀仏と、小さな阿弥陀仏が六体現れた。
もう、それだけで、何の説明がいるだろうか。
角度によって、その玉眼が光り、涙かと。
途端に、私の目頭もキーンと鈍い痛みを感じ、涙が滲む。
今も、なにかを、誰かを、救っておられる。
西国三十三番札所巡り、第十七番札所である。
ようやく五つばかり巡ることが出来た。
小糠雨だか、なんだか、でも、小糠雨にぴったりの、つぎは六道ノ辻。珍皇寺へ。
小野篁。
閻魔様。
そして、その、井戸。
今も息づいているもの、そして、ことがら。に、会ってしまった。
帰ってきて、纏めることが、なかなか出来ない。それらを、昔のことと、片づけることなど到底出来ないからである。今も、この世もあの世も、その間もずっとあり続け、誰も明確にその境界を協定などできやしまい。立ち会いのなんの。日々、生死の淵を往来しながら、鼓動を抱え、息を飲んだり、詰めたり、吸っては交感神経、吐いては副交感神経か。呼吸、酸素を運び、生き永らえるための作業ぞ。いや、そんなことより、よくよく考えてみると、空也さまをじっと見ているとき、呼吸など、意識していないのである。その生きているかの如く仏像に向かい、我は、自身を木片、いや、木端であるかの如く感じたのである。
生きていることの、当たり前すぎるほどの、不可思議を問いながら、この、瞬きを大切にしてゆかねばならぬと。
出来事は、次第に微かに芽吹く。芽吹き、風に揺れる。風に揺れては、頬に触れ、それはちいさな戒めでもあり、たった二ミリの自分史に刻まれ、生きているということなのであろう。
ただ、見て良かった。ってだけでなく、そんなふうに感じることが出来たのなら、それは、行って良かったな。って、彼。
ありがと。
わたしは何者か。
最後に、
Special thanks to mr.Kuma.
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