私は何者か、359
テレビをあまり見なくなった。
お仕着せの情報よりも、いろんなひとが好きなように自分の視点で現実に起きている何かを語っている方がより生々しく、事実を得られるような気がする。フェイクもあるなんて、それはそれでフェイクという事実である。テレビもそれも、そういう意味では大して変わりはない。
どちらにしても何百キロも離れたところで起きていることを、それらをもとに想像して、結局は判断するのは自分である。なんとも頼りなく曖昧な事実であることか。そして、ご都合主義なり。
どこかでこんなことが起きていると。
自分を何かに喩えたり、どこかの枠に押し込めてはいけない。わざわざそんなことをしなくても、既に我らは囚われの身なのである。
良いことかわるいことかは知らねども、知ることの大切さは捨ててはいけない。
しるとは、識るとも書く。
紙に書かずともしまっておける、抽斗がある。この身体のどこかに。
うちのお庭に、雑芝生のお庭に、例年通りウツギノヒメハナバチがやってきた。
羽音はプロペラみたいにブンブンである。
ひとを襲うわけでなく、わたしの庭にちいさな穴を無数に掘り、種の存続のため脚に卯木の黄色い花粉をたくさんつけては巣穴と卯木の花とを往復するのである。足の踏み場もないとはこのことで、いつも困るが、構わぬ、かわいいものよと、見ている。わずかひと月ほどすればいなくなる。
風そよぐ庭の隅の畑では、プチトマト、ピーマン、キャベツ、じゃがいもが、それぞれスッと立っていて、健気で、応援したくなるのである。
それに、一昨年稲を育てた睡蓮鉢に沈めておいた蓮が芽を出したようなのだ。嬉しい。死んだように眠っていた硬い実から細い緑の芽が伸びている。
こんなふうに、他人とあまり関わらない暮らしをするのが好みである。こころが平穏である。
なのに、スキして頂くと、平穏がぽっと温まり、ほんとに嬉しくなる。
わたしは何者か。
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