文化、未知との遭遇―自己啓発、組織運営に効く文化人類学入門#1
はじめに
人はみなコミュニティーに属して生きています。帰属意識はかなり希薄になったとはいえ、やはり人間関係の中で生きています。
組織や人間関係の問題でギクシャクすることがあります。致命的な不信感まで行ってしまうこともあります。何か可能性はないものでしょうか。
その問いに対して、一つの可能性をご提案します。題して、
『自己啓発、組織運営に効く文化人類学入門』
ひょんなことで出会った適用文化人類学を紹介し、自己啓発と組織運営に生かせるヒントを探って行きます。
文化は意識していない
どのようなコミュニティーも、必ず一つの文化を形成します。国も、民族も、会社も、学校も、家族も、そして自分も、文化を持っています。
しかし、それにあまり気づいていません。
文化という角度から自分や組織を考えてみると、自由になれることがかなりあります。
30代の行き詰まりの中で文化人類学に出会いました。
どれだけ助けられたかわかりません。かなり仕事で使ってきました。学校でも教えてきました。
カルチャー、未知との遭遇
人間は普通、文化を意識しません。なぜなら、文化は意識しないものだからです。
「いや、自分は自分の文化を意識している」
と言われるかもしれません。
しかし、その方は、文化について、人生のどこかで意識し始めるきっかけがあったはずです。
多くの場合、きっかけになるのは、他の文化に触れる経験です。
結婚したときにビックリしたなんていうのもそれです。かなりお付き合いして、そのへんもわかって一緒になれば、さほどギャップを感じないかもしれません。
しかし、紹介されてスピード婚。一緒に生活してみて、
「なんでこの人はこんなことを平気でできるんだろうか」
実は相手も、同じことを感じているかもしれません。
文化が違うのです。
文化は、それぞれの原家族(自分が人格形成をした家族)で形成されます。それがそのまま、新しい家庭に持ち込まれます。それぞれの背景を背負ったまま、
「カルチャー、未知との遭遇」
です。
外国に行って異文化に触れると、最初ビックリします。
若い頃、職場から勉強に行くように言われ、アメリカで3年過ごしました。
「カルチャー、未知との遭遇」の連続。
たとえば、アメリカは玄関で靴を脱ぎません。
それでも、友だちが、スニーカーを履いたままベッドで昼寝をしていたときにはさすがにビックリしました。
日本では身内のことを褒めません。本音と建前の文化だからです。
しかしアメリカは違います。自分のワイフのことを、人前で公然と褒めあげます。
ある人が多くの人を前に、
「うちのワイフは、自分が知るかぎり、最も○○な女性です」
なんて、褒めちぎっていました。
バイカルチャーな人間
「カルチャー、未知との遭遇」によって、自分にも自分の文化があることに気づきます。
逆に相手は、自分の文化にビックリしているかもしれない、
そんなことにも思いが至って、2つの文化を持ったバイカルチャーな人間になります。
1度バイカルチャーな人間になると、決して1つの文化に戻ることはありません。
しかし、これはとても良いことです。視野が広がり、思考も格段に柔軟になります。
コミュニティーも同じです。自分の属しているコミュニティーに、コミュニティー独自の文化があるなどとは最初考えません。
しかし、他のコミュニティーの文化に触れると、「アッ、そうか」などと視野が広がります。
これは実は大切なことです。文化として共有しているにすぎないものを、あたかも決定的に重要だと考えてしまう可能性があるからです。
これは、自分の成長にとっても、組織運営にとっても、大きな落とし穴になることがあります。
文化人類学との遭遇
文化人類学との出会いは、アメリカの学校でのことでした。
文化人類学といっても、数年かけてフォールドリサーチをして論文を書くような硬派なものではありません。
適用文化人類学の一領域です。
2年間の課程を終えたところで、もう1年、時間をもらえることがわかり、何を専攻しようか考えました。
だいたい送り出してくれた団体が好みそうな領域がありました。
そのあたりをやればだれも文句は言わない。団体にも貢献できる。そんな安易なことを考えていました。
振り返れば、自分で自分が見えないまま、とんでもない思い違いをしていて、留学したから箔がつくみたいなエリート臭が漂っていたと思います。
チヤホヤされる雰囲気もありました。
あまり深く考えず、アプリケーションを出しました。
数日経って、教務課から呼び出されました。
入学審査委員会からのコメントを伝えたい。専攻を変更しないかという学校側からの提案でした。
思いもよらない未知の世界との最初の接点。
その接点が自分の人生をこんなに変えてしまうとは夢にも思いませんでした。
当時は、文化人類学の必要性をまったく感じておらず、むしろバカにしていたようなところがあります。
「こんなヤワな、わけもわからない学問を勉強して、何がおもしろいんだろう」
今思えば他の学問領域に対して誠に失礼な、人を見下した幼稚な考えしか持っていませんでした。
自分の文化に縛られてまま、自立できていなかっただけです。
誤解のないように。自分が本来持っていた文化を否定しているのではありません。
少し勇気の要った決断
どうやら話しを聞くと、入学審査委員会のメンバーに文化人類学の先生がおられ、その方が誘ってくださったそうです。
先生は、その領域で博士号を持っておられます。クラスはいつも学生でごった返していました。
後日談では、入学審査委員会で順次書類審査が行われ、筆者の審査の順番になりました。
合格ということで、入学願書の書類一式が入ったファイルをパタンと閉じたところで、
「いや、待てよ、日本から留学生が来ているなら、文化人類学を勉強してもらうのもいいのではないか」
と、合格が保留になったということでした。
ずいぶん考えました。
未知の世界に飛び込むか、慣れている世界で頑張るか。
勝手なこともできないと、日本に電話をかけました。当時はインターネットもなく、国際電話で高い電話代を払っていました。
日本からの返事は予想どおり、
「そんなわけのわからない傍系の学問はやらんでもよろしい」
「わかりました」
と返事をして、学校の提案を受け入れ、文化人類学専攻にアプリケーションを出しました。
意味深い瞬間
正直なところ、日本のみんなが知っている土俵で相撲を取るのも気乗りしませんでした。それで、新しい分野をやろうと決めました。
その決断は、人間の成長の観点から見れば、従来の傘の中でぬくぬくと生きていたところから踏みだす意味深い瞬間だったと思います。
自分の人生観を形作りました。
周囲がどう思うかも大切ですが、自分がどう生きるべきなのか、何が正しいのかを、自分で考え自分で決める大切な練習の一コマでした。
自分が取り組んで来たテーマなので、どうしてもここに行きます。
自立です。
自立に向かって新しい分野に踏みだすことを何度かやった決断の最初の一歩。
一度決めたらまったく悩みませんでした。
その入学審査委員の先生が、アカデミック・アドバイザーになってくださいました。
先生は研修会で来日した経験があり、その頃、日本の文化土壌について考えておられたようです。
日本の学生から何かヒントを得たいというお気持ちもあったようです。
「音をたてて」目からウロコ
それから一年、ひょんなことから飛び込んだその世界はエキサイティングであり、
「音をたてて」目からウロコが落ちる
連続でした。
自分がいかに狭い世界で、縛られた生き方をしてきたかもわかりました。
あっという間に1年が過ぎ、2つの修士課程を終えて帰国しました。
この記事の背景には、この師との出会いがあります。もちろん人生での出会いはこの1回だけではありません。
何かの出会いがあって、それを受け止めて勇気を出してやってみると、次の世界が開かれて行きました。
お世話になった方々への恩返しです。気持ちを込めて一語一語を記しました。
今、振り返って
今思えば不思議です。
アメリカで書いた修士論文は、20年後に博士論文を書くための1章になりました。
その時は何もわからずに「エイッ」とやってしまったのですが、あとになって「つながった」ことの1つです(「50代のオジサン運転人生、免許をいろいろとってみた#9―やってよかった」)。
そして何よりも、文化人類学は生き方を大きく変えました。それも「エイッ」とやってしまって、その後の仕事に本当に役に立ちました。
文化人類学についてご紹介することから始め、コミュニケーションとはどういうことかなど、実際的なことにお話しを進めて行きます。
チョットおもしろい、現場で使えるヒントです。お気軽にお付き合いいただければ幸いです。 続く
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