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明日は彼の誕生日


12月に産まれた中で一番有名な人といえば言わずもがなイエス・キリストであろう。
クリスチャンでは無いのだが、クリスマスで浮き立つ街はいつも私をハッピーにしてくれる。
今年の12月は、そんな私を更にハッピーにしてくれるイベントが待っている。

我が家のハッピーボーイ、豆柴のコタローのバースデー。それが、12月22日なのである。この記事を書いてるのが12月の21日。すなわち彼のバースデーイブを私は今とても幸せな気分で過ごしているのだ。

彼の写真を織り交ぜながら少し彼との日々を振り返る。

下の写真は、コタローが我が家に来たときに撮影した一枚。
家族やブリーダーさんの元を離れ、失意のどん底にいる様子である。
まるでお通夜のようなテンション。こんなに落ち込むと思っていなかった。

失意のどん底にある
ボーゼン‥


犬の飼い主の事を「○○ちゃんママ」みたいに形容することもあるが、そんな甘い響きは出てこなかった。この時の私たちはさながら誘拐犯である。もちろん正規の手続きを経てお迎えはしているのだが。

コタローは数日間トイレ以外でケージから出てくる事はなかった。

我が家に犬をお迎えするのはずっと夫婦の夢だった。今年の4月、ペット可物件に引越し張り切って探し始めた。無難にペットショップへ行くが、料金設定の不透明さに後ろ黒さを感じてしまいパス。続いては里親募集のイベントへ。どの子たちも可愛かったが、いささか今の家にはサイズが大きすぎた。夫婦で話し合いをした結果お迎えしたい犬種がある程度固まっていたため、ブリーダーさんのところへ行くこととなった。

「みんなのブリーダー(以下みんブリ)」を閲覧する日々。みんブリは犬種や地域を絞って様々なブリーダーさんの育てている仔犬たちを見ることができた。

私たちはその中でとある柴犬を発見した。二匹の豆柴。どうも二匹はきょうだいらしく、顔はソックリ、価格もほぼ同じであった。ただ一方の豆柴の写真写りが良くない。なんだかテレっとしている。私たちはその犬が妙に気になり、問い合わせたのであった。

問い合わせて数日後には会いにいっていた。小さい。想像以上に小さな犬だった。
聞くところによるとこの犬は他のきょうだい犬と食事をする際食い負けしてしまい、他のきょうだい犬より500グラムも体重が低かった。ウロウロとあたりを歩き回る仔犬を見てたら、涙が出そうになった。愛おしさが溢れて。

かくして写真写りの悪かった仔犬を私たちはお迎えすることになった。
手続き中、ブリーダーさんは不安げに尋ねた。
「あの、本当にこの子でいいですか?ほら、その、普通の柴犬と比べて‥面白い顔、してますけど。」
面白い顔の犬。そんなパワーワードを聴き、ますます私はこの犬が愛おしくなるのだった。

誘拐犯に無理やり家に連れて来られた不幸な犬、コタロー。
初めて買ってやったおもちゃがこのロープの骨であるが‥

そのロープの半年後をお見せしよう。


今までお世話になりました。

ビキビキ‥ビキビキ‥という不気味な音を聞き、慌てて彼の前に行くと、ロープのおもちゃは絶命した後であった。

はい、この通り。写真写りの悪かった、面白い顔の犬は、こんなに立派に育ったのであった。

一生ケージから出て来ないんじゃないかという当初の不安は数日で払拭され、今では家中好き放題歩き回っている。

私たち夫婦は柴犬に対して無知であった。コタローをお迎えしてすぐに、柴犬の事をググってみたら

柴犬 飼って後悔

と言う検索が予測で出てきた。なんたることか。
柴犬は警戒心が強く、気性が荒い。噛み癖、無駄吠えが多い。主従関係が破綻すると手がつけられないほど獰猛になる‥

顔が青くなったり白くなったり。それから私たちはせっせとコタローにしつけをした。
暇さえあればYouTubeの「犬のしつけチャンネル」みたいなものを観まくった。
夜寝る前に、考えるのはコタローの未来の事。どうか優しい子に育ちますように。毎晩祈った。
夫とは犬のしつけ方法について何度も揉めた。ネットには様々な意見が載っていて、二人を度々混乱させた。Twitterに犬の話を書くと、様々なご意見をいただき、これまた混乱を招くため、コタローのことはTwitterに書かなくなった。(いただいたご意見は今でも活かされています。感謝。)

そんな日々が8ヶ月。犬の時間の進みは人より7倍早いと言うが、それに付き合う私たちにとっても、この8ヶ月は何年もの時間の経過に感じた。それほどに濃密な日々だった。

SNSで同じ年の柴犬の、不幸な話を聞けば眠れなくなるほど胸が痛み、コタローも同じ運命を辿ったらと思うと怖くなった。

背筋が冷えた事も何度かあった。駐車場で誤ってリードを落とした時、突然苦しみ出して大粒のドングリを吐いた時。この命は私たちが守らなくてはならない。責任の重さに押しつぶされそうになることもあった。

たかが犬ごときで、だなんて言わないで欲しい。犬は命である。個人の意思を持った、ひとつの立派な命である。

ただ、そんな責任の重さなんてなんのその、と思えるほど、この命は愛おしいのであった。

歯磨きガム食べてニコニコだ。

毎晩毎晩コタローの耳元で囁く。「お前は本当に可愛くて、本当にお利口な子だよ。」すると必ず「分かってるよ」とでも言うように囁く私の口元を数回舐める。

毎日毎日、コタローは小さな事件を頻発させては私たちを驚かせたり笑わせたりする。

一年前にはそれぞれバラバラに生きてた命が、今はひとつ屋根の下にある。

そんな事実が、私の心にあかりを灯す。もうこの命を知らなかった頃の私には戻れない。

コタローは、他の犬も人も大好きな優しい犬に育った。
お風呂上がりの私たちの元へ駆け寄り、濡れた脚をペロペロ舐める。
きっとそれは1年前、お腹の中からびしょ濡れで産まれてきた彼も、母犬にそうされたのだ。きっと愛おしげにペロペロと舐められたのだ。

彼と一緒にいる時の私は、自分の父と同じ笑い方をしてる事に気がついた。
父も私の事を、愛おしげな声で笑って見ていた。そんな日々を思い出した。

受けた愛は受け継がれていく。私の愛はコタローに届いているだろうか。

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