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毒親だったのかもしれない

水は人体に必要不可欠なものである。水を飲まなければ人は生きていけない。
そんな水でさえ、摂り過ぎれば中毒を引き起こし、人の命を奪ってしまう。
最近やたらと耳にする毒親、と言う言葉。だが私は「毒親」の定義が良く分からずにいる。耳かき一杯で何人もの人の命を奪うような毒もあるが、やたら大量に摂取しないと死ねない物質もある。どこからが毒で、どこからが毒でないのか。私の親に、毒はあったのだろうか。

父が自死した。山の上の山小屋で一人ぼっちで命を絶った。
その葬式の際、父の母親‥私にとっての祖母、が周囲の人たちと話すのを、私はぼんやりと見ていた。
「うちの息子は、職場の金使い込んだから死んだんよ」
ニヤニヤしながら話してる様子を見るに、それが祖母にとってのジョークのつもりだったようだ。だが周囲の人たちは反応に困り曖昧な相槌を打ち、その場を離れていった。
激しい怒りではなく、深い怒りという物もあるのだと知った瞬間であった。そして私はぼんやりと、こういう人を毒親というのだろうと思っていた。

父は生涯隣で暮らす自分の母親を忌み嫌っていた。そんな父だが、死ぬ直前、最後に言葉を交わしたのは自分の母親だった。
「俺は遠くに行くから、母ちゃんは弟を頼ってくれな」

それが多分、父が最後に他人に発した言葉であり、恐らく最後のSOSであった。



昔から私にはあまり多くの選択肢を与えられてこなかった。習い事も、進学する学校も、就く職業も、全て親に決められていた。
高校入試を間近に控えていた頃、母にちらりと自分の希望を伝えた。自分に合いそうな校風の私立高校に行きたいこと、専門学校に進学し、手に職を付けたいこと。
母は一笑して答えた「そんな事、お父さんが許すはずないでしょ。」
私に与えられた選択肢は、公立高校の普通科に通い、地方の国立大学の国文科を卒業し、図書館司書になる。それだけであった。

この選択肢があなたに一番あってると思うの。あなたのためを思って言ってるの。そう言う母親の言葉に反論する選択肢は、この頃の私は持ち合わせていなかった。

両親の希望していた公立高校の普通科に進学して半年後、親元離れて高校に通っていた私はうつとなり、希死念慮を抱くようになる。

頭痛と胃の痛みを訴えた私は、通院先の内科病院で軽い抗うつ薬を処方され、医師から「あなたには休む時間が必要です」と諭された。「どれくらい休みたいですか?希望の日数分休めるように、診断書を書きましょう。」

とんでもないことになってしまった。頭の中はそれでいっぱいだった。私が希望した休みの日数は1日。1日休むための診断書を書いてもらった。

一晩中カッターナイフを見つめていた。どれくらい深く切れば、死ねるのだろう。
ネットも今ほど普及していない頃である。私はあまりにも自死に無知だった。
ごくごく浅い傷を手首に付けるだけで恐れ慄いてしまった。

昨日、死のうと思ったんだ。電話で私が言うと、母はため息をついて言った。
悲劇のヒロインじゃあるまいし。明日から学校行きなさいね。
背中に雪の塊を流し込まれたかのようにヒヤーっと体が冷えた。親の思った通りに出来ないことは、死を超えるほどに恐ろしかった。

父からも電話が来た。お前、今の高校を辞めるなんてことを考えるんじゃないぞ。今の高校を辞めるってことは、俺にとってお前が犬畜生以下の存在になるって事だ。二度と人間扱いして貰えるなんて思うな。

気が狂いそうだった。人間でいたかった私は、申し訳程度に1日学校を休んだ後、復学した。
授業を受けるが、宇宙語でも聴いてるように、何ひとつ理解出来ない。教科書の文字も読めなくなっていた。
それがきっとうつの症状だったのであろう。私は生き甲斐だった読書も出来なくなり、生きる理由もよろこびもわからなくなっていた。


私の親は毒親だったのだろうか。
毒の無い親とは、どんな人たちなのであろうか。
どんな親にもきっと毒はあるのだろう。親と言うのは致死量の違う毒をそれぞれ抱いてるのかもしれない。


高校2年の頃、突然目が覚めた。
親と言う毒に侵されていたことに突然気がついた私は、その日から高校の登校を辞め、当時の担任の勧めもあり通信制高校へ転学した。

私が人生で初めてした反抗であった。
通信制高校の卒業式に父は来なかった。
もう彼の中で私は人間ではなくなったのかもしれないな、なんて思いつつ、私はこの選択を死ぬまで後悔しないようにしようと心に決めていた。




「父さんな、考えを変えることにしたんだ。」

高校を卒業した私は、ひたすらもがく日々を送っていた。その最中。父がのんびりとした口調で言った。

「今までお前が、父さんのできる事が出来ないのも、父さんの言う通りに動けないのも、お前の努力不足だって思っていた。でも違うんだな。お前にはお前の才能があり、お前の人生があるんだ。父さんそれにやっと気付いた。だからな、考え方を変える事にした。」

皮肉にもこの頃、父はうつを患っていた。私がかつて苦しんだ病に父も侵され、その症状は私よりも重かった。

この頃から少しづつ、私たちの関係性は変わっていったのであった。
父は歳を重ねるごとに穏やかな表情になっていき、晩年は仏様のようであった。

彼は彼の受けてきた毒と闘い、闘い抜いた人生だったのであろう。

母もまた、私に「辛い思いをさせて申し訳なかった」と、大人になってから私に言ってきた。それから私たちはたくさん話をした。愚痴や弱音、それぞれの子供の頃の事、自分たちの夢について語り合った。母にずっとずっと、こうして思いを伝えたかった。溢れる言葉たちは今もとめどなく溢れ、年に数回母と会うといつまでもいつまでも話してしまう。



私の親は毒親だったのかもしれない。その毒がどの程度の強さのもので、致死量がどれくらいなのかは分からない。

ただ私は、今生きている。そして今の両親を愛している。
ううん、今も少し憎んでる所があるかもしれない。だけど。
私たちの関係性は、少しいびつで不恰好な私の人生にも似ている。
こんな親子がこの世に1組くらい居てもいいよね。

彼らの娘に生まれてきて良かった。心からそう思う。
もうこの言葉は父には届かないけど。

父のように、親の毒で死に至る子も確実に存在する。
そんな子がこの世からなくなる事を祈っている。


追記‥泣きながら書いた、この支離滅裂な文章を読んでくださった皆様に感謝申し上げます。ありがとう

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