叩き上げ職人
私はヨガ講師です。そしてTTCとか習得していない人です。だからヨガインストラクター、ヨガ講師と名乗るのにすごく以前は抵抗があった。
今でこそ、ヨガインストラクターは職業として社会的にも認められている。
ヨガインストラクターに成りたくて、ヨガを始める人も少なくない。全米ヨガアライランスとか、インストラクター養成講座とかで何百時間と講座を受けて、それ相当の勉強をされている人達が、職業としてヨガに関わってられている。
私は?そういう意味では「ごめんなさい。」全く持ってヨガインストラクターに成ろうとしていなかった。
ただただヨガの練習が楽しい人。特に東京へ引っ越してからは、アシュタンガヨガの練習が楽しくって、そればかりしていた主婦が気づいたら「先生」と呼ばれていた。
なんと、モチベーションのない人だろう、と思われても致し方なし。
経緯は?
私が実践しているアシュタンガヨガは、今でこそ日本中にスタジオがあり、多くの先生方が指導されている。
が、20年近く前はまだ日本では知られていなくて日本での草分けの第一人者のハラクマ・ケン氏の根強くクラス展開されようとの初期のクラスに、ひょっこり舞い込んだのがお気楽主婦であったのが私である。
お気楽なんて表現したら、茶化して!とか思われてるかもしれないが、ほんとうにその時はお気楽主婦だったのだ。
ダンナの転勤で関西人の私が東京に来た。
仕事なし、子供なし、時間だけ有り余る身にとって何かをしなければ、キッチンドランカーになりそうや、と自己懸念の結果「そうだ、ヨガをしょう!」と「そうだ京都へ行こう!」のノリだった。
アシュタンガヨガは私を魅了した。何か、これ!と思うととことん食べる癖のように、もうとことんクラスに参加した。
土曜なんて3クラス出ていた。今から思えばどんたけ暇やねん!ってツッコミ入れたいほど、それほど楽しかった。
そんな時、ケン先生が時々留守をしなくてはいけない日があった。その当時クラスを持たれている先生は数人しかいなかった。ケン先生はいつもいつも皆勤賞のように練習している私に声をかけてくれた。「代わりにクラスしてくれる?」
私の返答は明確だ「無理!!です!!」
「やってよ。」「無理です。〇〇さんいるじゃないですか」「彼女も忙しいんだよ。やって」「無理!!です」
「ここは私がお金払いますから、」「いややここは、」的なおばさん問答を繰り返し、「そうですか、わかりました」と言ったのは私。
それから徐々にケン先生の代行を、やるようになって来たと同時に、アシュタンガヨガが日本で大ブームになって来た。
日本中から、アシュタンガヨガを学びたくってケン先生の所へ多くの人達がやって来た。
知らない内に私も、ケイコ先生と呼ばれたりするようになっていた。
今からアシュタンガヨガが大きく広がるぞーの波と一緒に先生と呼ばれていたのだ。かっこよく言えば、時代の波に乗った感じ。
大師匠はアシュタンガヨガを深める目的として「アシュタンガ短期集中講座」も開始された。
第1期、2期、3期生と、今はもう日本や世界で知られるいる先生方がたくさん参加されていた。
私はと言えば?その前の人。第1期の講座のアシスタントをしていた。それ位の古狸。
では、どのように学んで行ったのか?
全ては、現場て見よう見まねで始めた。
ケン先生や代行で海外から来られた先生の手技やアプローチの仕方を目で食い入るように見たり、自分の身体で体感したことを落とし込んでいった。
ただその繰り返しだった、最初の10年ほどは。
お陰で、感性は養われた、磨かれた。
現場主義と言っても、限界はある。ヨガを経験すればするほど、何も知らないことを知っていく。感性の裏付けがない。理論で整理されていない。
モチベーションのないお気楽主婦上がりのヨガインストラクターの限界だ。
そこから必要なものを学び続けた。それはヨガという枠以外からの学びの方が大きく占めていた。一見、全く関係なさそうなことでも、その時興味あるものは学んだ。
途中で、実際にクラスで展開されていることと私のクラスへの思いがチグハグになり始めた。ジレンマが拭い去れなくなった。
一切のクラスを手放した。
クラスほとんどしていないのに学んでいるからお金は減る。怖さと不安を友達にそれを続行していた。
現場主義の叩き上げ職人が、今までやっていたことを後付けで理論・知識で空白を埋めていく。
ここ数年は、そのような時期だった。
少しづつパズルがあい始めた感じがしている。一周回って、又始める感じ。
今でも私は叩き上げ職人だ。これからもそうでありたい。
が昔の叩き上げ職人の私とは違う気がしてる。