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自殺に向かう人の心について

※別の場所に書いたテキストの転載になります

はじめに

「なぜ死んではいけないのですか」

臨床場面において、よく問いかけられ、そして答えるのが難しい質問が「なぜ死んではいけないのですか?」というものです。切迫さはそれぞれ異なるものの、こうした疑問を臨床でぶつけられることは珍しいことではありません。この問いは自殺をほのめかすものであることから、私たち臨床家にとっては頭を悩ませるものとなります。

精神科領域において、それに対する代表的な答えは以下のものでしょうか。

「あなたは死にたいと思っているのですね。それはうつ病の症状からきているものであって、本来のあなたはまた別の考え方をしているはずです。今はお薬をのんで、しっかりと休んでください。どうしても我慢できないときは、入院も検討しましょう。さて、次の通院まで死なない約束はできますか?」

これは間違ってはいませんし、正しい姿勢だと思います。

しかしながら、精神的な疾患ですべての「死にたい」という気持ちが説明できるのでしょうか。そしてこうしたテンプレート的な態度は、治療者が「死にたい」という気持ちの切迫さから自らを守るものとなってはいないでしょうか。

筆者としては、全ての「死にたい」という訴えを精神疾患の症状とするのは少々雑な議論だと思います。また、そうした説明ですべての人が納得するとは思いません。切迫感がある場合はパターナリズムに基づいた対応が優先されると思いますが、時にはこうした問いにがっぷり四つで向き合う場面もあると思います。

そこで今回、この問いについて考えていきたいと思います。

まずは「死にたい」がどう自殺へと発展していくかです。そこでここでは、ジェシー・べリング著・鈴木幸太郎訳『ヒトはなぜ自殺するのか:死に向かう心の科学』(化学同人2021年)を下敷きに、そこで取り上げられた論文であるロイ・バウマイスターの”Suicide as Escape From Self“を中心として、自殺に向かう人の心のプロセスについて考えます。

※ちなみにベリングの本については、以下のようなご指摘をいただきました。

「自己からの回避としての自殺」

べリングがまず指摘するのは、不治の病などによる身体的苦痛からではない自殺において、「大多数のケースは他者がいるから自殺する」ということです。「対人的問題——とりわけこちらにとって不都合なことを相手が知っていて、こちらのことをどう思っているかを気にし過ぎる場合——は炎を掻き立て、その人間を死に至らしめることがある」のです。

このプロセスを細かく記したのが、社会心理学者であるロイ・バウマイスターによる論文「自己からの逃避としての自殺」になります。これは「人はなぜ自殺するのか」という問いに対し、一般的な心理プロセスとして解き明かそうとする試みであるといえます。ベリングはこのバウマイスターの理論を高く評価するとともに、これに照らしあわせて誰かの中に自殺の念慮を見つけることを提案しています。

それでは、べリングのテキストとバウマイスターの論文から、そのプロセスを一つずつ見ていくことにしましょう。

段階1 期待値に届かないこと

自殺に向かう道のりの始まりは、現在の状態が自分が期待するほどではない、という認識によって生じます。べリングやバウマイスターが強調するのは、不幸な状態そのものではなく、かつて幸せだった人が不幸へと転落してしまうことが、自殺を引き起こす契機になるという点です。

べリングによれば、それは「山の斜面を転げ落ちる」のに似ているのです。高いところにいればいるほど、そこから落ちた時の衝撃は強くなります。バウマイスターによれば、この落差を作り出すのは、基準が非現実的に高い場合か現実の状態が異常に悪い場合、あるいはそれが両方生じることであると述べます。

べリングはそれに加えて、「ほかの人々が私たちに過剰なほどの期待を寄せる時、私たちは彼らを失望させる恐怖に押しつぶされることがある」と、他者からの不合理な欲求に応えようとすることも言及しています。 とりわけ自分の存在にとって重要な存在である人物——端的には両親からの過度な期待というものは、この落差を作り出すリスクとなる可能性は大きいかもしれません。

臨床場面での観察を付け加えるのであれば、この基準は外から見えるものであるということが極めて重要であるように思います。つまるところ、個人の努力やがんばりといった内的な価値ではなく、成績や金銭、社会的ステータスなどの外的価値こそが基準となるのです。それらは結果でのみ語られ、そこに至るまでのプロセスは顧みられることはありません。それゆえ0か100か、クロかシロかという極端な判断に帰結してしまう傾向があるのでしょう。

段階2 自己への帰属

次のステップは、期待外れの結果をすべて自分のせいにしてしまう、ということです。「困った状態になったことで自分を呪うなら、それが赤信号だ。<中略>低い自尊心に加えて、失敗(もしくはその脅威)に対する反応として自分を悪しき者とみなし始めることが、その人間を危険な状況におく」とべリングは述べます。

こうした自己への帰属は、人間の一般的な心理的メカニズムが影響していると考えられます。バウマイスターは「根本的な帰属の誤り」という、個人の行動を説明するときに、環境よりも個人的な性質を重視する傾向によって説明します。偶発的で一時的なものである環境に比べて、個人的な性質は変わりにくく、それを重視してしまう結果として悪いことが将来にわたって続いたり、また繰り返してしまうと思い込んでしまうのです。べリングは、そこに「抑うつリアリズム」と呼ばれる議論を付け加えます。これは精神的に健康な人は自己像を実際よりよく見ているが、抑うつ状態ではその認知が正しくなり、よいものとして見ることができなくなるというものです。抑うつ状態が重なることによって、自分自身がよりダメなものであるという認識になるのです。しかもこれは厄介なことに「正しい」認識なのです。すなわち、「あなたはもっとよい人間だよ」というようなアドバイスや説得が、通じにくいのです。

臨床的には「他人はOKだけど自分はNO」という特徴として、これらは現れることがあると感じます。自分の特徴や行動の中で自分自身が許せないものについて盛んに語った人に、こちらが「ところで、それをもし他人がしていたらどう感じますか?」と視線を変えた質問をすると、途端に「それは問題ありません」としてしまう人は珍しくありません。こうした他人に優しく自分に厳しいという特徴は、普段はプラスとして働くものかもしれませんが、シビアな状況においては自分をますます追い詰めることにつながってしまいます。反対に自分の失敗をすぐ他人のせいにしてしまうような(元アメリカ大統領のような)人物に関しては、 べリングもバウマイスターも自己への帰属を行って自殺へと向かうことはないだろうと述べています。

他人に優しく、自分に厳しい。そして現状を正しく認識している。そうした一般的に好ましい傾向がゆえに、この段階にいる人を説得してわからせようというアドバイスは、さらに困難となるのです。

段階3 自意識の高まり / 段階4 否定的感情

失望の原因を自己に帰属する結果として生じるのが、次のステップである「自意識の高まり」です。ここでいう自意識とは、耐えきれないほど不快で苦痛を生むような自分自身に対するイメージのことです。自分の欠点に対して不必要なほどの固執をみせることで、自分が無能である、嫌われている、罪人である、不完全であるというような認識が生まれます。

べリングはこの状態においては、他者に対する共感の低下も引き起こされることになると述べています。自分の死がまわりの人々にどのような影響を与えるか、あるいはだれが自分を心配しているかについて考えようとしても、その相手の身になることが難しくなってしまうというのです。

そして次のステップで生じるのが、「否定的感情」です。自意識の高まりの結果として、まさに「存在が耐えられない」ような状態が作り出されるのです。そのため意識を永久に喪失させるような行為として、自殺が魅力的に映ってしまうようになるというのです。べリングによれば「心の平和を見いだせないなら、心の不在の平和の方を求めてしまう」のです。

バウマイスターの理論の中核は、この自意識の高まりが生む苦痛からの逃避として、自殺が生じると考える点であるとべリングは述べます。リストカットなどの自傷行為や、アルコールなどの物質依存も同様の理由で生じると考えられます。べリングもバウマイスター本人の話として、アルコールが代替手段になることを述べていますし、リストカットについてもそののちに触れています。

臨床的な視点でいえば、こうした自意識の高まりが生む苦痛を他者と分け合うことによって緩和させられるか、という点であると思います。べリングは「この状態にある人間に理性と論理を用いることは、片方の足を複雑骨折した人にその足を使わずに歩けばいいと助言」することに等しい、と述べています。すなわち通常の人間関係におけるアドバイスが無効化されてしまっているのです。逆説的にいえば、ここにこそ理性や論理でない「関わり」をベースとした心理面接が有効に働く契機があると思います。

段階5 認知的解体 / 段階6 脱抑制

代替手段にいくことなく、自殺へと進む道を突き進むのであれば、段々と一般的な心理的プロセスからかけ離れた、特殊な心理的状態を経験するようになっていきます。次のステップは「認知的解体」と呼ばれるものです。これは意味やまとまりのあった思考から逃れ、単純な考えや行動にのめり込むようになるという状態を指します。

バウマイスターやべリングによれば、この認知的解体の状態では「時間が非常にゆっくりと進む」「内省的な思考ではなく、具体的な思考が非常に増える」「退屈なルーティンの勉強や作業に没頭する」ということが起こるとされます。これらは苦痛から逃れるために行われるものであり、それは部分的に成功するため、現在に集中して不思議な平穏が訪れるほどであると言われます。

そしてこの認知的解体が進むことによって、自殺への最後の障壁が取り除かれていくことになります。これが最後のステップとなる、脱抑制の段階です。ベリングはこの状態の思考法として「~しかない」という「オール・オア・ナッシングに特徴づけられた二分法的思考」がみられると強調します。中間状態が消え、どんどん極端な方向、つまり生か死の「どちらかしかない」状態に進んでいくことになるのです。

そして自傷行為や自殺企図などが繰り返されることによって、徐々に「自殺するための能力を獲得する」ことになっていきます。死に対する恐怖感の減少と、そして身体的苦痛への耐性がついていくことで、結末に対する準備が整っていくことになるのです。解離を生むような性的虐待などの既往があることは、こうした準備を一気に推し進めるものとなると考えられます。

臨床的には、この段階まで進んだのであれば具体的な行動をとることが求められると考えられます。困難となるのは、認知的解体によって偽りの平穏がクライアントに訪れるようにみえることがある、ということです。バウマイスターが述べるように、自殺の決意が真になされたのであれば、未来がこないことが約束されるがために、その人の苦痛や不安はなくなってしまうのです。これを見逃さないためには、自殺についてオープンに話し合い、そのアセスメントをしっかりと行っておくしかないと考えられます。

「自己からの逃避としての自殺」理論が明らかにすること

以上がバウマイスターの「自己からの逃避としての自殺」理論となります。段階が進めば進むほどそこから降りることは難しくはなりますが、「どの段階においても自殺への道から降りることが可能である」と、ベリングはバウマイスターの言葉を紹介しています。

このようなプロセスを支援者が把握すること、そして各段階に合わせたアプローチをとることは、自殺を防ぐためにはとても重要です。臨床場面でも、死にたいと訴える本人にこうしたプロセスが存在すること伝えることは有用であると思われます。

しかしながら、これは最初に提示した「なぜ死んではいけないのですか」という問いに対して答えるものではありません。次回の記事では、この問いに対して答えることを試みます。

参考文献

ジェシー・べリング,鈴木幸太郎訳(2021) ヒトはなぜ自殺するのか:死に向かう心の科学 化学同人

R.Baumeister(1990) “Suicide as Escape From Self ” Psychological Reveview 97(1), 90-113.

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