【第1回/全3回】障がいを負わない限りパラリンピック出場は挑戦できなかったこと。
丸安毛糸株式会社では、アルペンスキーヤー 青木大和選手のスポンサーとして、2026年冬季パラリンピック出場に向けた活動に協賛しています。青木選手と丸安毛糸の岡崎 淳(素材部プロモーションDiv.リーダー)は中学からの同級生で高校は同じ部活。かれこれ16年の付き合いになり、そんな身近な友人である青木選手のチャレンジを応援したいという想いで、今回の対談を企画しました。青木選手がパラリンピックを目指した経緯、パラスキーヤーと起業家としての日々、未来の夢に向けた想いなどを語っていただきました。
<今回の対談は、青木選手と淳が主役です!>
青木 大和(あおき やまと) 選手
1994年3月9日生まれ、東京都出身。29歳。
(株)EXx(エックス)代表取締役CEO/アルペンスキーヤー(2022年北京パラリンピック日本代表)
15歳にて単身渡米し、オバマ政権の誕生を目の当たりにし、帰国。帰国後にNPO法人を設立。2016年1月に事故に遭い、脊髄損傷。リハビリと共に2017年に起業し、2020年にスピンアウトする形で、現在CEOを務める株式会社EXxを創業。「参加したくなる"まち"をつくる」ための、移動の改革を軸とした自治体DXソリューションの開発を手掛ける。
プライベートでは、2020年にパラリンピックを出場を目指し、幼少期より打ち込んでいたアルペンスキーに復帰。翌2021年に日本代表に選出され、2023年の北京パラリンピックに日本代表として初出場。2026年のミラノコルティナパラリンピックにてメダル獲得を目指す。
岡崎 淳(以下、岡崎):
私と青木大和選手(以下、青木選手の愛称「青木」)は中高の同級生で、中学1年のスキー教室で初めて彼と会って仲良くなりました。青木は学生の頃から目立つ存在でしたが、障がいを負ってからも前をキリッと見据え、持ち前のエネルギッシュさで人生を切り拓いています。私自身も人生の大切な節目節目で彼に背中を押してもらってきました。彼が挑戦を続ける姿は、多くの方に勇気を与えてくれると思いますし、この混沌とした日本に今求められている貴重な存在だと思います。
岡崎:
現在、青木は2026年冬季パラリンピック出場に向けてトレーニングをしています。この挑戦を一人でも多くの方にご紹介したいと思い、今回のインタビューを企画しました。
それでは、まずはプロフィールと現在の活動されていることを教えてください!
青木:
青木 大和(あおき やまと)です。1994年3月9日生まれで、現在29歳。スキーヤーと会社経営の“二刀流”で生きています。私の経営する株式会社EXx(エックス)は、移動型滞在施設・電動キックボードなどの提供のほか、企業や自治体向けのモビリティ事業開発支援など行っています。
スキーヤーとしての私は、アルペンスキーの日本代表として、2023年北京冬季パラリンピックに出場させてもらいました。現在は、2026年のミラノ・コルティナダンペッツォ冬季パラリンピックに向けてトレーニングを重ねています。
岡崎:
今でこそ、パラリンピアン(※)として活躍していますが、2016年に青木の事故を聞いた時、私も大きなショックを受けました。あの事故からパラリンピックを目指すまでどんなことがあったのでしょうか?
青木:
2016年1月、私が22歳の時、階段から転落し脊髄を損傷し、下半身不随になりました。医師から言われたのは「99.7%の確率で二度と歩くことができない」という言葉。目の前が真っ暗になり、病室で泣きじゃくりました。
寝たきり生活が約2ヶ月過ぎた頃、どうしても「二度と歩けない」という事実を受け入れることが出来ず、どうにかまた歩けるようになりたいという一心で、脊髄損傷のことを片っ端から調べました。そんな時、NHK「プロフェッショナル 仕事の流儀」で紹介されたリハビリ医 酒向正春先生を知り、一縷の望みをかけて連絡を取りました。元・巨人軍監督 長嶋茂雄さんのリハビリを担当された先生です。酒向先生のところに行けば、私も歩けるようになるかもしれない。そんな私の想いを先生は受け止めて下さり、二人三脚でのリハビリが始まりました。
先生をはじめ、様々な方のお力添えによって、ふたたび一人で歩くことができた瞬間。あの喜びと安堵を、私は忘れることができません。一生車椅子と宣告されていた中、私も周りも驚くほどの回復でした。リハビリを始めて数ヶ月後、杖をつきながらですが、日常生活に復帰することができるようになったんです。本当、人生は何が起こるか分かりませんね。
岡崎:
パラリンピックという目標を持ったきっかけは何だったのでしょうか?
青木:
もともと3歳の頃からスキーをして、中高時代はアルペンスキー部に所属していました。関東大会へ出場など青春時代の全てをアルペンスキーに打ち込んでいました。しかし、実力・体力の面で頂点になるのは無理と断念。17歳の時にスキーの世界から身を引いていたんです。
青木:
病院での日々から日常生活へ徐々に戻る中、何か目標や夢を持って挑戦したいという想いを持つようになりました。退院後のある日、スキーをやっていた頃の先輩たちからスキーに誘われたんです。きっとみんなは私が落ち込んでいると思って励まそうとしてくれたんだと思います。滑ってみたら、中高生の頃より上手くなってるという感覚で滑れて、内心「あれっ!?」と。みんなも「なんか上手くなってる」「パラリンピック目指せるんじゃないか」って焚き付けられて。
パラリンピックなんて予想だにしなかったけど、調べるうちに“もしかしたら行けるかも”と気持ちが高揚しました。かつて青春時代にアルペンスキーに打ち込んでいただけに、難しい挑戦だと理解もしていましたが、せっかくの一度きりの人生だし、パラリンピック出場は障がいを負わない限り挑戦できないことなので、ここで挑んでみたいと。
私はずっと“多くの人がいかなる状況でも挑戦ができ、 何度でも夢を追いかけることができる”。そんな世の中であってほしいと思っていました。そのメッセージを体現して、私の歩みと共に伝えたいと思っています。
私がパラリンピックを目指すことに反対するアドバイスもありましたが、それでも仲間や先輩、後輩に背中を押していただきました。その大切な一人がオカジュン(丸安毛糸 岡崎 淳の愛称)です。
(第2回につづく(全3回))