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祖父はオレンジ色と共に
およそ70年前、戦中から戦後すぐのことだ。
国鉄勤めの父親は、浮気が原因で身重の母に追い出され、
長男は諸事情あって海外へ逃亡。
おまけに次男は四歳にして肺炎で亡くなってしまった結果、
三男だった祖父が家を継ぐことになった。
当時の、長男第一の田舎の家ではありえないことだったろう。
継いだ家には、自給自足が出来る程度の野菜とみかん畑。
そしてそれだけでは食っていけないが、軽トラックにどんどん積むと
一度では運べない程度に実る、一面の柿畑があった。
女手一つで育ててくれた母親から譲り受けた大事な畑。
それを祖父はタクシー会社勤務の傍ら、生涯守り続けることとなる。
普段は一人で世話をしているのだが、収穫となると人手が要る。
だから毎年11月の三連休辺りになると、収穫の時期がくると子供と孫に招集が掛かった。
私たちも慣れたもので、毎年この連休は予定を空けてある。
そしてこの時期の畑は芯から冷えるから、長袖を何層にも着込み、水筒には熱いコーヒー。
休憩用のお菓子を用意し朝から畑へ。
男達は皆揃って肩からオレンジの籠を下げ、反対側の肩には脚立を担ぎ、手に鋏を持って動き回る。
安定する箇所に脚立を置くと、高い位置まで上って次から次へと柿を採り、籠の八割くらいまで埋まると地上へ下ろす。
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私は降りてきたそれを空の籠と交換し、受け取った、柿がぱつぱつに詰まった籠をえっちらおっちら運んでいく。かなりの重労働だ。
祖母と母に渡された柿は、二人の手で仕分けられ黄色いキャリーに整然と詰められていき、一杯になれば軽トラックの荷台にどんどんと積まれていくのだ。
![](https://assets.st-note.com/img/1661460467787-xXyURIEp7O.jpg?width=1200)
そのオレンジの山を見ると今年もあともう少しだ、となんだか寂しい気持ちが湧く。
因みにこの作業は完全に無料奉仕だ。
それでも私たちは祖父が声を掛ければぞろぞろと集まる。
それはきっと、柿採りが盆や正月と同じように年中行事の一つだったからだろう。
柿をひたすら採り、休憩時間にダラダラと喋るこの三日間が、私達孫世代が揃って成人してからは、一番長い時間親戚が揃う日だったように思う。
加えて、皆単純に祖父のことが好きだったのだ。
特に私は何処に出しても恥ずかしくないおじいちゃん子で、
祖父に「ワシに似ているから【本名】は頭が良い」と言われると、褒められたことよりも、似ていると言われたことが嬉しかった。
逆に「私はじいちゃん似だから」と言うと今度は祖父が喜んだ。相思相愛だ。
そんな恒例行事が突然終わりを迎えたのは祖父が86歳の秋の始め。
肺を悪くして救急車で運ばれ、もう意識が戻らないかもという知らせに子も、孫も、ひ孫も一斉に集まった。
その後、なんとか一命は取り留め退院できたたものの、足腰が弱って杖が必要になっていたこともあり、1人で畑を維持できる体力はもう残っていなかった。
そこで子世代、つまり父たちの兄弟が話し合い、柿畑は誰も面倒を見切れないということで、祖父了承の下、綺麗に潰されてしまったらしい。
らしい、と言うのはみかん畑だけが残り、その隣、ぽっかり穴が空いた柿畑の跡地を未だに確認出来ずにいるからだ。
空の青と柿のオレンジ。
深い緑色の葉と黄色いコンテナ。
傍には白い軽トラックが並び、すぐ隣でショートピースを吸う祖父の姿が、違うものに塗り替えられそうで、今現在も避けている。
![](https://assets.st-note.com/img/1661459486849-D3Q9921yhZ.jpg?width=1200)
その後。
見ないぞ、と避け続けて1年が経った頃。
突然祖父の容体が悪化して緊急入院し、意識が殆ど無くなった。
覚悟を、と言われてコロナ禍にも関わらず病室への入室が許され、2日後。祖父は87年の生涯を終えた。
最後は家族11人に囲まれ、私に手を握られて亡くなった祖父。
皆好きに声を掛けるものだから最後までうるさかったことだろう。
皆で看取った後。現実感がないまま斎場に移動した。
何度言われても止めなかった煙草を枕元に置き、交代で線香を焚いて。
その中で付き添いが私一人になる一瞬があった。
2人きりなのは本当にこれが最後になる。
そう思い顔を見た時。涙腺が壊れたように涙が流れ出た。
別れを言わないと。でも言葉が上手く出ない。
やっとのことで口にしたのは
「じいちゃん、時計貰ってくで」だった。
祖父の病室にあった腕時計は、私が就職してすぐプレゼントした物だった。渡してから14年。
ベルトを交換しながら大事にしてくれていたと、
亡くなる直前に初めて知ったのだ。
病室に置いていたら一緒にお棺に入れられてしまう。
でも、私は形見になるものが欲しかった。
だから貰っていこう、そう思ったのだ。
そして、結局それだけしか言えなかった。
その後、私が撮った写真が遺影に選ばれ、賑やかな家族葬を済ませて。
お骨を拾い、本当は骨が欲しかったなあ、なんて思いながら
先に離脱し、1人で関西に帰る特急電車の中。
瀬戸大橋を渡り、海に沈んでいくオレンジ色の太陽をぼんやり見ながら。
「……一緒に居られてずっと楽しかったよ」
言えなかった言葉を呟いたら視界が曇って何も見えなくなった。
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