問題が起こるのには必ず原因がある→ただし人間は除く
お仕事でプログラムを組んでいるのですが、どうにもこうにもうまくいかないバグが発生してしまいました…
結局すぐには原因究明できなかったため、過去に完成させたベースのプログラムを引っ張り出してソースを置き換えて対処したものの改善せず。
仕方ないので参照データを差し替えたら…正常に動きました(笑)
どうやらデータが破損してしまったらしく、それによって不具合が出てしまったようです。いくらプログラムを修正しても直らないわけです。
更に突き詰めて調べたところ、データ内の「,」が欠けていました。恐らく試作したプログラムを動かした際に、「,」を消した状態でデータを上書きしてしまったようです。それがすべてに影響を与えてしまった…というのが事の顛末です。
プログラムに発生する問題には、必ず原因があります。
「わたしが試作したプログラムを実行した段階で、誤ってデータを破損させてしまった」…これが今回のバグの原因でした。
このように、「問題が発生する→原因究明する→正しく修正する」という流れで問題を解決できるのがプログラムの世界です。
ところが人間の世界ではこうはいきません。
問題が発生したとして、それを「正す」というのは、逆に言えば「誰かが間違っている」ということです。その正しさや誤りは何を基準に、誰がどのように判断して決めたものでしょう?
道徳・常識・当たり前…いわゆる社会通念と呼ばれるものが、わたしたちの生活の中には存在していて、その社会通念に従って判断する場面は多々あります。問題というのは、その社会通念に照らし合わせて著しく異なるために起きると考えられます。
正しい/間違いの判断基準が社会通念にあるとしたら、お互いの環境における社会通念がまったく同じものでなければなりません。
が、果たしてまったく同じということはあり得るのでしょうか?
例えば、都会と田舎では文化が異なります。
お隣さんと親しくするのは、ある人にとっては常識で、ある人にとっては非常識となることだってあり得ます。
自家用車は一家に一台が当たり前という人もいれば、家族一人一台が当然という人もいます。
公立学校に通うのが普通と考える人もいれば、私立学校が基本という人だっているわけです。
環境が異なれば、文化が異なります。
文化が異なれば、常識が異なります。
常識が異なれば、善悪や正誤の判断基準が異なります。
ということは、何を問題とするかという根底から異なってしまうわけです。
だから、簡単に問題を解決するということ自体を考え直さなければならないことになります。
何を問題と見て、それによってどんな影響を受けているのか。
今の状態をどう捉えていて、どのような状態を理想としているのか。
それは一人ひとり異なります。
そして話を聞く側、解決しようと支援する側によっても異なります。
「問題を解決する」ということは、実はとても難しいんです。
だから「原因を究明する」こともまた難しいんです。
もし人間が、プログラムのように原因を究明して修正すれば問題が解決するというものであれば、世の中はもっとドライで簡潔に整えることができるでしょう。
ですが、そうは簡単に解決できない複雑な生き物だからこそ、悩んだり苦しんだりするわけです。でもそうやって悩むこと自体が、とても人間らしく生き抜いていることの証でもあります。
わたしはむしろ「悩むからこそ人間らしい」と思うのですが、みなさんはどう思いますか?
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