理念と実践(5)仏法への確信「現代人物論 池田大作」小林正巳著(昭和44年9月25日)第21回  

比較論と歴史観

 池田は日蓮の仏法への確信を、一方では西洋哲学や他の宗教との比較論に、また一方では、歴史的必然を説く史観に展開している 。
比較論を一口にいえば、
 「従来の西洋哲学はカントはじめ、いずれも生命の本質を説ききらず、部分的説明であり観念に過ぎない。キリスト教はじめ、世界的諸宗教もまた、生命の本質、因果律を説いていない。これに対して 、日蓮大聖人の哲学では、生命の理法を完全に説いている。それが観念論でないことは七百万世術の人たちが、喜々として信心にはげむ現証に現われている」という趣旨である。また史観では、
 「三千年前のインドでおこった仏教は、釈迦自身予言した仏法流布の方程式どおり 、釈迦滅後千年で衰滅した。この間、仏法が流布したインドのマウリア朝時代、阿育大王が全インド統一、仏法の慈悲を根幹とする福祉政策が実施され、死刑も廃されるなど、当時の王仏冥合が実現され、インドはじまって以来の文化が興隆した。ついで中国では天台大師によって法華経が広められ、世界的な唐文化を生み出した。
また、日本では伝教大師によって法華経が広められ、平安朝文化の基礎を築いた。いずれも仏法の流布した時代に、その国が栄えたことを実証している 。
 これに対し、キリスト教、共産主義などを根底としたところでは、残虐と悲惨の歴史をくり返している。一歩誤れば人類破滅の危険に遭遇した今日の世界で、世界の平和を実現するために人間性尊重を根幹とする日蓮大聖人の哲学思想が新しく興隆するのは歴史の必然」と説くのである。

森羅万象の認識

 日蓮の仏法の甚本哲理の一つに空、仮、中の三諦というのがある。つまり、あらゆる現象を分析する理法で、空諦とは有無の二元観のわく外にある存在の仕方で、実体こそ見えないが、状態として認めざるをえない存在形態のことである。
 たとえば水は氷、湯、蒸気など、さまざまな形をとるが、そのいずれになってもH2Oという分子式で表わされる水の本質に変わりがない。これが中諦である。そして、水が固体、液体、気体に変化する姿を仮諦とし、変化するという性質や働きを空諦とする。
 このように、一瞬一瞬の宇宙の森羅万象をこの三つの立ち場から認識する。この認識が根本となって、さまざまに実践論に 展開されるのだそうだ。というのは、私自身哲学的索養に欠け、よくわからないからである 。
とにかく、西洋哲学が個人の思索にとどまるのに対し、必ず実践のともなうところが宗教たるゆえんなのだろう。

教学の研鑽

 創価学会では行学の二道といって、実践たる折伏と同じように教学の勉強が重視される。したがって定期的に勉強会が開かれ、老いも若きも、日蓮の御書の解説などを通じて、基礎から宗教哲学の研鐙に励むのである。教学力の程度によって定期的に、入信間もない人の任用試験にはじまって、助師、講師 、助教授補、助教授 、教授補、教授の六段階の昇格試験が行なわれる 。
 四十四年一月に行なわれた四十三年度の任用試験を例にとれば、約四十八万人の受験者が全国二万三千会場に分れていっせいに行なわれている。おそらく、これほどのマンモス試験はほかにないだろう。電車の中で、隣に座っている人が一生懸命に日蓮の御書全集などを読んでいるのをみかける人も多いだろうが、たいていそういうときは教学試験シースンである。国外でも南北アメリカ、ヨーロッパ、東南アジアなど世界四十四か国で、英、仏 、独、スペイン語など九か国語の選択により 、教学試験がいっせいに実施されたという 。
 いずれにしても、年令、職業、一般的教育程度を問わず、一つの学問に数百万の人たちが、取りくんでいる事実は驚異的といわざるをえない。