桃太郎製菓 老舗メーカーが歩んだ50年と明日への展望
伝統製法によるキャンデー・ういろう・ようかんで知られる桃太郎製菓(岐阜県各務原市、吉田明浩社長)は2023年、創業50年を迎えた。「50周年は一つの通過点。次の60、70年に向けてたゆまぬ努力を重ねていきたい」と前向きな吉田社長に半世紀の歩みと今後の展望を聞いた。
桃太郎製菓が創業したのは1973年。吉田社長の父である吉田一成氏が、最初は個人事業としてスタートさせた。
「父は元々機械いじりが好きでとりわけ陸王などのオートバイが大好きでした。ですから本当はメカニックを目指していたようですが、戦後の動乱期ということもあり、もっと安定的な食に関する仕事に就きなさいと親に反対されたそうです。それで岐阜のお菓子問屋に丁稚奉公にいったのがはじまりでした」
丁稚として10年働けばのれん分けをさせてもらえる条件だったというが、勤め先の商家が法人化し、一成氏もその社員の一人になったことで独立の話はうやむやに。悩んだ末にお菓子メーカーに転職を決め、そこで専務まで勤め上げたのちに念願の独立。最初に製造したのはあんきりだった。
「数年は良かったみたいですが、あんきりのような半生菓子は保存期間が短いという弱点がありました。他にもスナックおこしやスティックゼリーなどの新製品を出すなど、試行錯誤の連続だったようです」
同社の社是の一つが「大いなる勇気を以て、失敗を恐れず、常にイノベーションを志す」だ。まさに果敢にチャレンジした結果、現代に続くヒット製品が生まれた。
「先代が信州の方へ旅行に出かけたときに塩ようかんを食べて、これだと閃いたそうです。甘いようかんにしょっぱい塩が合うのだから飴に塩を入れても美味しいはずだと。今では熱中症対策としてポピュラーになっていますが、当時は塩を入れた飴はなかったものですから、展示会に出店したときには物珍しさから、訪れた人全員が買っていったなんて話もあります」
チャレンジ精神を忘れない
塩飴のブレークを皮切りにハーブエキス配合の飴の製造にも着手した。
「当時、のど飴やメントール系ドロップは薬局でしか見ませんでしたが、これをお菓子売り場で販売しようとハーブエキスを入れたキャンデーも製造しました。とにかく既成概念にとらわれず自由な発想で製品開発をしていました」
その後、飴のオフシーズン対策に最中の製造にも挑戦している。こうしたチャレンジ精神は脈々と受け継がれており、試作の段階ではあるが現在、同社の既存設備を活用した蒸し菓子類の製作も行っているという。
社名である「桃太郎製菓」は、創業者の一成氏の出生地が桃太郎伝説発祥の地の一つである、愛知県犬山市の桃太郎神社の近くであったことに由来している。子ども達には桃太郎のように勇気ある若者に成長してほしいという願いが込められているそうだ。
1973年に住宅街の一画で創業した同社は、塩飴、のど飴、沖縄黒糖飴と続くヒットで軌道に乗った。1986年に工場設備の拡大を兼ねて現在の岐阜県各務原市鵜沼各務原町に移転。その頃から沖縄黒糖飴の評判を聞いた全国のスーパーから注文が来るようになり、それまで製造していた最中などの販売を止めてキャンデー一本での経営となった。
転機が訪れたのは2007年。ういろうとようかんを製造するための半生菓子工場を敷地内に増設した。
「300年以上の歴史がある愛知県西尾市のようかん屋さんが廃業するというのを知り、伝統の味を途絶えさせるわけにはいかないと思い、製造設備を引き取り、職人の方々にも来ていただきました」
さあこれからだ、というときに予期せぬ事態が起こった。先代の吉田一成氏が倒れ、当時常務で現在の社長である吉田明浩氏に事業が継承されることになったのだ。
「父は昔の職人気質。経営について手取り足取り教えるようなタイプではありませんでした。キャンデーの知識はありましたが、これから始まるようかんやういろうは手探り状態。正直に言えば毎日が不安で仕方がありませんでした」
ようかんとういろうが主力製品に
吉田社長はある言葉に支えられていたという。
「『ふりむくな、ふりむくな、うしろには夢がない』という寺山修司さんのさらばハイセイコーという詩の一節です。父が倒れて辛い時期でしたが、過去を思い続けて立ち止まっている場合ではない。私がしっかりしないとみんなが路頭に迷ってしまうとこの言葉を自分に言い聞かせていました。この一節はキャンデー工場と半生菓子工場のそれぞれに今も掲示してあります」
ようかんとういろうは今日、同社の主力製品になっている。とりわけ蒸しようかんの上に甘く煮られた無漂白の栗がぎっしりと敷き詰められた『栗蒸し羊羹』は、手作業で栗を並べるなど伝統の製法を守っており、その懐かしくて優しい甘みにファンも多い。ういろうの売上も好調を続ける。
「ういろうは、元々は名古屋のお土産として有名でしたが、スーパーで売られているのを見て買ってみたらこれが美味しい、また次も買ってみようという具合にリピートしてくれる人が多いようで、昨年の10月には地元のスーパーから7万5000本の注文が来て、私も驚きました」
50周年を迎えた記念に式典なども考えていたというが、一つの通過点という意味合いを込め、あえて行わなかった。
「記念のタイミングで改めて『美味しくなければお菓子じゃない』というモットーに立ち返りたいと思っています。お菓子は本来、美味しくて夢のあるもの。この当たり前のことを忘れずに挑戦し続けていきたいと思います」
同社が創業した1973年は奇しくも第一次オイルショックにより物価が急上昇した年だ。
「創業者である父から資材や原材料などの調達に苦労したと聞かされたことがあります。50年後の今、国際情勢の不安定化による円安やエネルギーコストの上昇により同じように原材料の調達に苦労しています。こういうときは思いきった判断をしなければなりません。水ようかんや駄菓子など製品ラインナップの約半数の製造を中止しました。止まない雨はありません。必ず青空が広がると信じて前進していきたいと思います」
言葉通り新製品の開発には意欲的だ。例えば、Amazon限定で琥珀糖の販売にも乗り出している。評判も上々でバイヤーからの問い合わせも来ているという。
日本一の製品を出したい
同社は人との縁を大切にしてきた。社是には「広き仁愛を以て、人と人とのつながり、恩義を尊ぶ」とある。縁を結んだ人々の中には、なんと「ミスタープロ野球」こと長嶋茂雄氏もいるという。
「長嶋さんが読売ジャイアンツ監督時代に宮崎でキャンプをしていて、そこにファンの方が弊社の沖縄黒糖飴を差し入れしてくれたみたいです。それを食べて、これはうまい、どこで作られているか探してほしいということになり、弊社に連絡がありました。それが縁となり飴をお送りするようになり、監督現役中は必ずこの飴を持っていってくれていたみたいです」
長嶋氏が監督を退任したときには先代の社長と一緒に式典にも招待されたという。
人との縁という意味では社員の労働環境の改善にも力をいれている。
「せっかくの縁で働いてくれているわけですから、少しでも良い環境で仕事をしてほしいと思っています。例えば、夏場、工場内が暑いとそれだけで気持ちよく仕事ができません。屋根に遮熱塗装を施したり、さらにその上に直射日光を防いで遮熱効果を兼ねたソーラーパネルを設置したりして働きやすい環境になるように工夫をしています」
同社の経営理念は「安心・安全を前提に、おいしいお菓子の追究を通じ、お客様に笑顔と幸せをお届けする」だ。それを体現するため、岐阜県が定める衛生管理基準を満たした施設を認定する岐阜県HACCPを黒糖飴と蒸しようかんの2つの製品で取得した。
吉田社長は今後の展望をこう話す。
「弊社は昭和50年代の初頭に塩飴を発案しました。私の代でも桃太郎が掲げている旗のように何か“日本一”となれるようなものを出し、次の世代に継承したい。そんな気持ちで経営に取り組んでいます」
きっと桃太郎のように長く愛されるお菓子を生み出してくれるに違いない。
【吉田明浩社長のプロフィール】
●出身地:岐阜県
●生年月日:1964年4月2日
●役職:桃太郎製菓株式会社 代表取締役
●趣味:音楽鑑賞、ドライブ、ツーリング
●略歴:親譲りなのか、血は争えないのか、卒業後、自動車ディーラーにメカニックとして就職。先代から桃太郎製菓本社工場移転拡大計画の話があり、桃太郎製菓に転職。製造〜営業まで経験した後、常務時代に先代が倒れた後を継ぎ代表取締役に就任。紆余曲折を経て現在に至る。