小林カツ代さんの「気」が巡る
最近、小林カツ代さんのエッセイを読んでいる。どうも調子が出ないなぁと思っていたところへ、いろんな方からオススメしてもらったのだ。
導かれるように図書館の棚の前に立つと、食にまつわるエッセイがぎっしりと詰まっていて、圧巻だった。タイトルを眺めているだけで愉快になる。
食に関するエッセイは、レシピ棚の隣にあったのか。小説・エッセイ棚とは階が違うため、完全に未開の地!にんまりしながら、まずは直感で1冊を手に取った。
「小林カツ代の日常茶飯 食の思想」
白い表紙にさらりと文字が書かれたその本は、未発表原稿や講演記録をまとめたもの、ということらしい。
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ごく簡単にまとめると、家庭料理を巡る様々な呪縛に対して、上品な美しい言葉で「うるせえ、ばーか」と言っている本だった。朗らかに、明るく。
家庭料理という呪縛
女だから、という不公平
そういう、誰が決めたか分からない「当たり前」を壊してきた人の、力強い言葉たち。
カツ代さんは私たちよりも何世代か前だから、今よりもほんとうに草ぼうぼうの荒地を切り開いてきたワーママの開拓者だ。
本の途中、「だしは必ず取る。顆粒出汁や、化学調味料はなるべく使わない」「電子レンジで温めるとまずい」などのくだりもあり、一瞬ひぃぃぃっと仰け反るが、この本で伝えたいのはおそらくそこではない。(と自分に言い聞かせる)
各論はどうでも良くて、他人モードの呪縛から離れ、自分モードで料理を楽しむことを彼女は説いているのだと私は思った。「当たり前だから」「そうしなきゃいけないから」と嫌々する料理ではなくて、「こうしたい」を大切にする。よそのレールから降りなさいな、とカツ代さんが背中を押してくれているのだ。
そもそも、結婚・出産・育児と、強制他人モード生活のジェットコースターに乗っているようなものだから、料理が他人モードになっていたって不思議はない。
日々、自分で自分の首を絞める。「お母さんなんだから、こうしなきゃだめだ」「また、惣菜を買ってしまって、私はなんてだめなんだ」無意識のうちに、どす黒い罪悪感が心の底へ沈殿していく。
この本には、
・野菜(素材)が気持ちよさそうなほうを選ぶ
・体が喜ぶほうを選ぶ
・手間をかけるのではなく、気をかける
そういった本来目を向けるべきことが書かれている。
他人は関係ない。ただ、素材と食べてくれる人のことだけを考えて、料理する。野菜が気持ち良さそうなタイミングが茹で上がり!とか、たくさん売っていて安いものが旬!とか、そりゃそうだ、と思う。確かに堅苦しいルールなんて何にも要らない。
なんだか、肩から力が抜けていくような気がした。
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ちなみに、小林カツ代さんというと、料理研究家の中でも重鎮で、丸くて笑顔で、ちょっとドラえもんみたいな方、という印象があった。ザ・料理をするために生まれてきた人、という感じ。
しかし本によれば、カツ代さんは学生結婚で、料理をするようになったのはなんと結婚してから。それでいて、小さい娘・息子(しかも年子)を育てているときには、もうテレビやラジオなどひっぱりだこの存在だったようだ。
はぁ、すごいなぁと思わず唸る。様々な呪縛に葛藤しながらも、彼女は仕事を手放そうとしたことは1度もなかったと言う。
カツ代さんは2014年に亡くなり、息子の料理研究家、ケンタロウさんもバイク事故で表舞台には出てこなくなった。(これを書くために調べたら、ケンタロウさんは車いすで外出できるまでに回復しているらしい。男子ごはんに復帰する日が来たら、日本中が泣いてしまう。ケンタロウさんも、奥様も、本当にすごい)
おふたりを日常で目にすることがなくても、レシピやエッセイは時間も空間も超え、巡り巡って私の掌の中であたたかな「気」になっている。
食べることは、生きること。食べるのは一瞬だけど、「気」はずっと残るんだ。この本を読んでいたらそんなふうに思って、お腹がぐうと鳴った。
*リアルな晩ごはんマガジン【平日の瞬殺飯を週末のご馳走】を毎週更新しています