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【俳句鑑賞】第5回おウチde俳句大賞 その2

前回の記事に引き続き、「夏井いつきのおウチde俳句くらぶ」内の俳句イベントのひとつ、「第5回おウチde俳句大賞」に投句された作品を鑑賞していきます。
俳句の出典は、すべてこちらのページから。

骨壷と並んで相撲見る炬燵

作者:小川野雪兎

季語は「炬燵(こたつ)」で、冬。
暖房がこれだけ普及した今でも、日本の冬の風物詩としてお馴染みの防寒家具ですね。日常に溶け込む存在として、とても味わいがあって好きな季語のひとつです。
なお、「相撲」も秋の季語ではありますが、この句のそれはテレビ中継でしょうから、季語としての力はほとんどないと考えて良いでしょう。

一般的に、一句に入れ込める要素は高々4つまで、そして動詞は1つ以下に抑えるのが良いと言われています(諸説あり)。
それを、この句は「骨壷」「相撲」「炬燵」に加えて「並ぶ」「見る」と動詞を2つ入れているにも関わらず、全く破綻もなく、ごちゃごちゃ感も慌ただしい感じもなく、すっきり読めてしまうのです。
一語一語の質量をよく分かっていて、バランス感覚に優れた方の作品だと思いました。

2つの動詞は、どちらも重要な働きをしていますね。
「並ぶ」ということは、骨壷をわざわざ隣に持ってきて、故人と一緒に相撲観戦をする訳です。相撲がお好きな方だったのでしょう。「骨壷を置いて」ではない、「並んで」というところに、故人を偲ぶ気持ち・愛情が感じられます。
また、「見る」は俳句では不要と言われることの多い動詞ですが、この句においては、自分がいま故人と行動を同じくしているという実感を支えてくれますね。

「相撲」と「炬燵」の関係については、こちらのイベントで語らせて頂きました。よろしければ是非ご覧ください。
「骨壷」「並ぶ」「相撲」「見る」「炬燵」どれも必要な言葉で、どれも揺るぎない位置に置かれている。大賞を飾るに相応しい一句であったと思います。

ああ外は雪かと壁へつぶやいて

作者:藍創千悠子

季語は「雪(ゆき)」で、晩冬。
俳句における三大季語のひとつです(残りは「月」と「花」)。冬になれば全国どこでも見られるというものではありませんが、冬を象徴する存在として、和歌の時代から盛んに詠まれてきた歴史が大きいですね。

「雪」という季語は本当に複雑な本意を持っていると思うのですが、この句からは深い深い孤独を感じます。
「ああ外は雪か」とは、「外」と関わらない人間の台詞。誰に言うでもない「つぶやいて」という表現も切ないですね。

そして、僕が何より孤独を感じたのは、「壁」の一語です。
雪かどうかを視認できる「窓」ではなく、「壁」なのです。
この作中主体にとって、「外」は文字通り世界の外であり、会話相手もいなければ窓もない。あるのは「壁」のみ。つぶやいた台詞の半分は、眼前の「壁」に虚しく吸われ、半分は虚しく自分に返ってくる。
なんという孤独の世界でしょう。
「雪」は暗く冷たく、物理的にも「外」との隔たりを深くします。心に残る作品でした。

うららかなチャイムウクレレ届いたか

作者:立町力二

季語は「うららか」で、春。
晴天に太陽がぽかぽかと照り輝くような、春らしい日和のこと。「あたたか」「のどか」「日永」「春昼」など、この手の春の時候の季語は動きやすいのですが、「うららか」は晴天・太陽の映像が背景にある点が特徴ですね。

この句は、いかにも「うららか」で楽しい作品です。
注文した「ウクレレ」がついに届き、うきうき気分。
「ウクレレ」という楽器自体も「うららか」なもので、ここに晴天・太陽のイメージが重なってきます。

そして特筆すべきは、この句そのものが「ウクレレ」の音楽のように、明るい韻律を持っていることです。
「うららか」と「ウクレレ」は、「う」とカ行・ラ行、そして同音反復が共通し、「とどいた」の部分とも響き合っています。
なんとなくの言葉遊びに終わらず、押韻が句の内容や季語の本意と見事にマッチしていて、何度でも唱えたくなるような作品でした。

戦争の立ってないほうの廊下を蝶

作者:濃厚エッグタルト

季語は「蝶(ちょう)」で、春。
他の季節にも「夏の蝶」「秋の蝶」「冬の蝶」として詠まれ、「初蝶(春)」「老蝶(秋)」「凍蝶(冬)」など様々な表現もなされてきた、俳人に人気の動物のひとつです。

この句は、一読して「戦争が廊下の奥に立つてゐた/渡辺白泉」の本歌取りと分かりますね。
白泉の句は戦中の作品(戦前とも言われますが、当時の日本は既に戦争に足を突っ込んでいました)で、「戦争」という我々人類の逃れがたき業を直視し、その恐怖を映像化した凄みのある作品です。
それに対して今回の「蝶」の句は、白泉の廊下の反対側を見ました。
これは戦争から目を背けるということではなくて、人類には本質的に戦争へ進む道と平和へ進む道の両方が備わっているということではないかと思います。
戦争への道そのものを無くすことはできないけれど、もう一つの道を選ぶことはできるはずだと。
「蝶」を愛でる心、忘れないようにしたいですね。

玄関に燕子宮に第一子

作者:紅紫あやめ

季語は「燕(つばめ)」で、仲春。
人間の暮らしに最も身近な鳥のひとつで、天敵に襲われにくいことから、人家の軒などを好んで営巣するんですね。その時期に合わせて「燕」「燕の巣」は春の季語に、その後の「燕の子」は夏の季語、「燕帰る」は秋の季語になっています。

この作品は対句の型になっていて、玄関には燕が来てくれたよ、そして我が子宮には第一子が来てくれたよ、という風に、喜びを重ねていく形になっています。
対句の型は、「○○、一方で○○」というニュアンスが強くなるとちょっとクサさが出るなあと思うのですが、この句にそれは全くないですね。
燕も第一子も、どちらも素直に喜ばしい。
燕は去年の巣を今年も使ったりするので、「来てくれた」という喜びがひときわ大きいんですよね。第一子を授かる喜びも、「来てくれた」という感覚に通ずるものがあるのではないかと思います。

ちなみに、燕はひと春・ひと夏の間に複数回子育てをすることがあり、その最初の子たちを「一番子」と呼びます。「燕」の句に「第一子」という言葉選びがよく馴染むのは、こんな訳もありそうです。

春の猫写真の父を倒すなり

作者:海野ちきまる

季語は「春の猫(はるのねこ)」で、春。
猫は初春に発情期を迎え、出産も春に行うことから、「恋猫」「春の猫」「子猫」はいずれも春の季語として詠まれてきました。僕は犬派なのですが、どうやら俳人には猫のほうが人気なようです。

この句は、クスッと笑えるようなほのぼのとした場面を詠まれていて、いかにも明るく春らしくて良いですね。
「写真の父」は、実際にこの光景を目撃しているのか、遠方に住んでいるのか、あるいは既に他界しているのか。様々に読めますが、いずれにせよ「父」とこの猫は大の仲良しに違いありません。そう読みたいですね。少なくとも「父」の側は、この猫を溺愛していそうな雰囲気を感じます。

そう感じるのは、「恋猫」でも「子猫」でもない「春の猫」という選択と、「父の写真」ではなく「写真の父」とした語順の巧さ、さらに「倒しけり」ではなく「倒すなり」と断定した点が大きいのかなと思います。
「恋猫」は激しすぎるし「子猫」は優しすぎる。「春」という季節の雰囲気を纏った猫、という絶妙な選択。犬にはない、猫独特の関白気質もよく表れてきます。
中七の語順は、「父の写真」だと即物的・写実的になります。「写真の父」だからこそ、猫が倒したのは「父」であるという可笑しみが効いてくるんですね。
下五は、「倒しけり」だと「倒したのだなあ」とハッと気付いて詠嘆する感じ。「倒すなり」は「倒すのだ!」という断定ですから、猫の意思がより強く前に出てきます。このほうが季語の主役感が出ますね。

でも、一番すごいのは、季語の選択・語順・助動詞の巧さを「巧いでしょ?」と言ってこないところだと思うのです。
一読して、あらあら倒しちゃってまあと微笑んで、春だなあと思えば、それで良いんですよね。こんな句を作ってみたいものです。

以上になります。長文お読みいただきありがとうございました!

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