負けるゆとり
勝って何あろう。我が意見通らずとも良し。その時は自分の意見が、絶対正しいと信じていても、後で、何てあさはかなと恥ずかしくなる事が、度々なので、負けようと決心して以来、心に「ゆとり」が出来た。あまり、腹が立たなくなったのである。私の「あだ名」は、子供の頃から「外人」、頭は天然パーマ、目は大きい。戦争中は、外に出ると、いじめられるので、家で、本を読んだり、防空壕で「コオロギ」と遊んだりしていた。
母には「戦争は、外人が、勝った方がええ。」と言って、困らせたそうな。戦後、進駐軍が、緑色の木の箱に、缶詰や、チーズを配給してくれた時、私は、外に飛び出て「外人は、やっぱり、えらいんじゃけえ」と、いばり出した。「若草物語」という映画を、学校から許可があって見に行くと、友達や先生までが、ベス役のエリザベステーラーそっくりと、口々に言った。「外人そっくりの がいじんじゃったでえ。ベスになった人。」と。ゆとりが あるのか、ないのか、夜、寝て見る夢にまで、授業や、試験の夢を、見ている頃だった。二十歳頃には、岡山に、住んで、学生運動も、それなりに、落ち着いて考えるゆとりも、精神的余裕も無く、付き合いで、適当に、やっていた。そんな ある日、学生や、働く仲間の ダンスパーティーが、催され、私も 約束の時間に、間に合うように、急いでいた。人通りの少ない道を歩いていると 三歳位の女の子が、転んで、泣いているので、抱き起こして、手当てを、してやると、「ママがいない」と、泣きじゃくりなが しがみついてくる。「お家は?」と尋ねると「あっち」と言う。指したあっちの方向へ、行くと「こっち」と言う。約束の時間は、過ぎるし、仕方なく 交番に事情を 説明して、引き渡した。「あんたは、もてるから、ずっと そばにいて おこぼれを、ちょうだいしよう」と待っていた友人は、怒るし、女の子は、おんぶして歩いてるうちに、涙と、鼻水と、泥とで、服を汚すし、皆の視線が、終わりまで、自分に 集中しているようで、散々だった。後日迷い子は、岡山電力の〇〇課長の娘さんとわかり、お礼にと、名刺と 豪華な洋菓子を 寮に届けてあった。それから二十八年位、先日 買物で、百貨店に行くと「ちょっと、お子さん ちゃんと、しつけてよ。きょうびの若いお母さんは、もう」と、怒鳴る声がする。ふと、振り返ると 二歳位の女の子が、転んで泣いている。そばを、三歳位の女の子が、走りまわっている。私は、三人の子供を育て終わり、一番下は、十八歳の筈なのにと思ったが、弁解するゆとりも無く「すみません」と言うと又もや、おんぶに、抱っ子で、あたふた。今度は、電話をかけていた人が、「ありがとうございます。」と、すぐに 走り寄って来られたが、ふと、二十八年前の迷い子も、もうあの位の年齢になっているのではないかと思い出した。若く見られたら最後、頭から、ゆとりもなく「きょうびの若いお母さん!!」と言われるのですぞ。若く見られ過ぎて、いつも、あたふたしている ゆとりのない私の方こそ、落ち着いて、年相応に見られるように、心のゆとりを、教えて欲しいと願っています。いっそ、初めから負けて、弁解せずに、ピンクの ルージュでもしようかな?