Noteはじめました
Noteはじめました。ちなみにいまモンゴルです。
私はだれかというと、岡野英之という、ミャンマー=タイ国境に関する研究をしている研究者です。
至極まともな研究者というものは自分の専門しかモノを書かないのですが、そういうような人間にはどうも私はなれそうにないのです。研究者といえども人間であればそれ以外のことでもしゃべりたいことなど多々あるだろうに、そういうことを禁欲的に抑制している人は凄いなと思うわけです。
私は我慢が嫌いでできるだけ我慢をしないようにしているのだが、ここでそろそろ、言いたいことをできるだけ言うような媒体が必要になってきた。
とはいえ面白くないことを書いても誰も掲載なぞさせてくれないので、それなら自分で書きなぐれるだけ書く殴るような場所を作りたいと思いNoteを作成した次第です。
でも、Noteを作ったからといって言いたいことを言えるかというとそうではない。人に理解可能なように書かなければならないだろうし、ポリコレを気を付けなければならないだろうし、曲がりなりにも人に読んでもらうための文章があるといろんな制約があることは間違いない。
それでもなお書き殴るような場所を作ったのは、他の人に読んでもらうためには自分の頭を整理する必要があるからである。思いついたことや愚痴、ひらめきや憎悪や嫉妬や興奮や欲望など人間の頭の中にはさまざまな動きがあり、それらは言語化をすることによってより明確な形で(人に理解可能な形で)立ち現れる。言語化をするとその際には切り落とされるものもあるものの、それでもなお伝えられることがある。動物の写真を撮った時に、その場にいないとわからない息遣いなどは間違いなく捨てられるものの、それでもなお写真には動物の姿が立ち現れるのだ。
文章もそれと同じではないだろうか。文章にした時点で自分の体験や考えたこと、見たことや聞いたことはかなりの部分で矮小化されてしまう。魅力は間違いなく半減している(あるいはそれ以上に減っている)。それでもなお文章を書くことによって伝わることはあるのだ。
その文章化という作業は、他人に伝わるだけではない。自分自身にとっても「伝わる」のだ。自分の中にあった言語化されていない(表現できていない)心の動きというものは往々にして理解できない。文章化することは矮小化されているかもしれないが、自分にとっても理解可能なものへと転換する。さらには自分ならどのような点が矮小化されているのかも気づくことができる。
いってみれば文章化するとは、ある時点での自分の考えを理解可能なものにするということを中心にする一方、それによって立ち現れた文章は、文章化という作業によって切り落としたものを振り返って思い出すための「依り代」になるともいえる。
そんなことを考え自分のために文章をしたためることにした。自分のためにしたことが人のためにもなる。自分が自分のことを理解しようと文章化したものが、他人に何かを伝え、かつ、いくばくかの心の動きを与えればいい(この心の動き、大きなものだと感動と形容できるのかもしれないが、個々で意図したのはそれよりもかなり小さいものだ)。
そう考えてNoteを始めることにした。
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