日常と非日常が織り成すグラデーション
深夜だからこその景色
今働いている場所がそこそこ離れた2か所にあって、仕事終わりの深夜に車で移動することが多い。深夜ではなくてもよいのだが、高速道路の深夜割引きがそこそこ大きい上、自由が利き、荷物の多さも気にしなくていい、とかいろいろな理由をつけてそうしている。
車移動が苦でない理由は、深夜に伊勢湾岸道名古屋港付近を通ったときに見える工場のライトの煌めきは、工場好きでなくても、目を見張る美しさがあるからだ。昼間は武骨な工場が夜に魅せるあの光景が「本当に綺麗」という小並感の感想しかできないが、好きなのだ。
ちょうど0時にETCを通るくらいで出発するとこれが見れるし、深夜にサービスエリアで食べる、別に特段おいしくもない一杯の温かい麺類をすするのが好きなので、一日の終わりが長距離車移動というできれば避けたい状況も、案外と楽しんでいる。
ちょっとした変化
その日も特に何も考えず、ただひたすらたわいもないことを延々としゃべり続け、当初の予定を一向に進めないニコ生のマイクラ放送も終わり、今日も移動だな、と準備しているとき。ふと。深夜割引ギリギリに高速乗ったことそういやないな、と思った。思っただけ過ぎそうなものだけど、なぜかその日は少し仮眠をとって4時少し前に移動しようと方針を変えた。
ずぼらな性格
仕事などはおおよそ早めにことを片付けて後は遊んでいたい人間なのだが、荷物の準備だけはどうにもそれができない。
出張が多くなってきたある時期から出張キットと呼んでいるものがある。
透明のジップロックに用途ごとのアイテムを整理して持ち歩けるようにしているので、当然それをもって移動すれば都市であれば何も困らない程度の生活はできる。そのための出張キットだ。
だがしかし、いつもギリギリまで本当にくだらない無用なことを考え込み、結果、何も変わっていない。いや、むしろ、一番肝心な忘れ物をする、なんてこともよくある。合理的なのか合理的でないのか自分でも頭が悪いことくらいはわかる程度のひどさである。
話は逸れるが、ジップロックは旅好きにはおすすめだと思う。チャック式なので開け閉めも楽で、何より外からでも中身が一目瞭然というのがいい。スマホケーブル、交換用SIM、ピン、はさみ、カッター、ばんそうこう、ボールペンなどなどこれまでの旅で困ったなどを二度と繰り返さないようにといろいろできあがったキットが2パターンあって、行先などに応じてもっていく袋を選ぶだけだ。だが、それも面倒になってきて、今は2つとも持ち歩いているあたりが、なるほどそういう性格なんだ、ということだろう。
ギリギリ、いつもギリギリ
話を元に戻そう。4時前に高速に乗ればいい、ということだが、まぁ、そう簡単にはいかない。いや、違う。本来なら4時前に乗ることなど余裕だったはずなのだ。だが、家を出るころにはこれはギリギリじゃないか、という時間になっていたのだ。警告してくれなかった時計が悪いことにしておく。
自分でも本当に何を考えているんだ、と思うのだが、いつもこんな調子である。それでも、まぁ、ギリギリでも4時前に乗ればいいのだ、と神様も呆れかえる楽観主義で車を走らせる。
あ、ダメじゃね?
そうだ。結構な距離を移動するものだから、いつも高速を乗る前に安全のために給油するのだ。それを考慮に入れてなかった。サービスエリアにも給油所があるだから、そこまで気にするようなことではないのだが、なんだかんだ無駄なコダワリのようなものがあるのか、高速に乗る前に給油をしないと不安になるのだ。
そこまでわかっていながら考慮に入れない、このどうしようもないいい加減さはどうにかしたいのだが、それでも特に何かに不自由することもなく健康で文化的な生活を送れているので、心の奥底ではもう改善する気はおそらく一片たりともない。改善するもの面倒だと思っているフシすらある。
だが、持ち前の適当さはこれまでギリギリでしのげてきており、今回も3時40分台には乗れていたのだから、いい感じだ。何が、どう、いい、のかはわからないし、アウトだったときのことはおそらく記憶からキレイさっぱり消しているだけのご都合主義であることはおそらく間違いないが、記憶にないのだから大丈夫だ。と思う。
いつもと違う何か
よく見る道路も、よく立ち寄るサービスエリアも、いつも時間と距離の確認の指標にしている建物も、時間が違えば見え方も全然違うものだなぁ、と思いながら、普段車でかける曲もこの日ばかりはあまり聞かくなってきていた曲にしたりなんかして、何をしてるんだか。
そんなお調子者が運転する快調に走る車。
ノリノリで聞いてる音楽。
無機質な経路案内アプリの音声ガイド。
3時間ほど走っただろうか。辺りが夜明け前の独特の色合いを見せ始める。
ふと時計に目をやる。
日の出まであと10分ほどだった。
周りの風景に少し目をやる。
地平線の影にある太陽の光に照らされた山々がどれひとつとして同じではない緑に覆われ、重なり合う稜線がすべてはっきり見えたのには、普段は知っている真夜中では決して見れない美しさだった。
本当にどれひとつとして同じ緑はなかった。
山登りで頂上から見える雄大な景色を好む人がいる一方で、美しい稜線の重なりを好む人がいるという知識はあったが、そうか、こういうことかもしれないな、と思った。これを周りに何もない頂上から見るとまた全く違った思いを抱くだろうことは想像に難くない。
じっと見続けるわけにもいかないので、目線を戻す。
日の出直前の空の色。黄から赤、赤から青までゆっくりとその色を変えていくなんとも表現しようのないグラデーション。
その日に照らされ、まるで竜を思わすような形の、清少納言が枕草子で春を詠んだ一文を思い出さざるをえないほどの紫立ちたる雲。
緑に包まれる山々が魅せる稜線。赤焼けに染まる空。紫立ちたる雲。
ほんの数分しか見れないその風景。
その最後に今までの風景を作り出した真っ赤に染まった太陽。
ほんの軽い気持ちでずらした出発時間。
いつもと何も変わらない日常をほんの少し変えた非日常から見れた景色。
日常と非日常が織り成すグラデーション
人生とは思ったようにはなかなか自由にもならず、どこかお決まりのパターンを繰り返しがちになるその生活で、ほんの少しの変化でもこういうことが起きるのだから、やはり人生は面白いのだ。これは仕事でも趣味でもなんでもそうだと思う。
そこでふと思う。
叡王戦で見届け人を6度もやり、いろんな方々からネットの向こうから声掛けしてもらえるようになったのも、ほんの少し自分の行動を変えた結果だ。
棋士にとっては日常であるだろう対局は、私には非日常だ。
それが重なったあの瞬間に見えた景色は、
勝敗によって人生が動く棋士から見えた感情のグラデーションは、
かけがえのないものだった、と改めて思う。
手にしている棋譜は黒の罫線と文字が書かれたわずか6枚の上白紙ではある。
だが、非日常に向かった自分が見た、それを手にしたときに見た、棋士の人生を賭けて生み出した一手一手が記載されたその棋譜を手にしたあの瞬間に見た、嬉しさや残酷さをまざまざと感じたあの感情のグラデーションは、世界でただ一人、自分にしか感じられないのだ。
また一歩。経験したことない何かと出会うためにまた一歩。踏み出していきたいと思う。
いつか、また、どこかで。