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「俺が最弱だと思ってた」長谷川琢也さんが教えてくれた、誰かの仕事を拾い続ける力

お金の学校『toi』は、参加者の「お金」にまつわる悩みや夢を、校長・井上拓美&MC・くいしんと様々なゲストを交えて本気で考えることで、それぞれに必要な“問い”を一緒に探していく学校です。このnoteでは、メンバーの一員でもあるライターが講義を聞き、感じたこと、気づきや学びについて記録していきます。

いつからか、『好きなことで生きていく』ことへの風向きが変わったと思う。

「せっかく働くならやりがいを感じたい」「やりたい仕事をやって、お金を稼ぎたい」という思いや言葉を、公の場でよく見かけるようにもなった。

自分も、好きな仕事があって、この仕事を一生の仕事にできればいいと思っている。この文章を書いているのは、現在27歳のフリーランスの編集者だ。2019年の末に会社をやめ、2020年の1月から東京で仕事をしている。

そこでしか出会えない人と会うために日本全国へ行き、土地の仕事や文化について記事にする……そんな仕事のことを友人たちに話すと、決まって「ええ仕事やなあ!」と驚かれる。もちろん「ええ仕事」には違いないが、不安がないかと言えば嘘になる。

フリーランスに会社員、学生、働くことを一休みしている人……立場や環境は変われど、『やりたいことをやりながら、生活するにはどうしたらいいんだろう』という悩みは永久不滅だ。僕たちは、小さな選択と結果を繰り返しながら「これからどうしようか」という漠然とした悩みを抱え続ける。

そんなことを悶々と考えている時の講義だった。

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toiの講義第3回には、ヤフー株式会社に在籍しながら、宮城県石巻市で漁業にまつわる団体「一般社団法人フィッシャーマン・ジャパン」の事務局長を務める長谷川琢也さんが登場。

彼は社外での活動だけではなく、ヤフー株式会社の事業として、海と漁業にまつわるWEBメディア『Gyoppy!』を立ち上げ、そのプロデューサーも務めている。

大手インターネット企業に20年以上勤務しながら、「海」をテーマとした様々な活動に取り組む長谷川さん(以下、はせたくさん)に、『組織の中でやりたいことをやるには?』というテーマでお話を聞いた。講義を通してわかったことは、「やりたいことをやる」より何歩も手前に、やるべきことが山のようにあるということだった。

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ライター:乾隼人
1993年生まれの編集者・ライター。兵庫県出身。『ジモコロ』『TURNS』など地方の仕事と文化にまつわるメディアを中心に執筆しています。講義の登壇者、長谷川琢也さんには『TURNS』2020年8月発売号で取材し、初日からサーフィンに連れて行かれるという不思議な歓迎を受けました。


海のメディアを、Yahoo!の中でやる

実は、筆者がはせたくさんの話を聞くのはこれが最初ではなかった。

2020年の夏、筆者は彼の住む宮城県石巻市へと行き、「一般社団法人フィッシャーマン・ジャパン(以下、フィッシャーマン・ジャパン)」の取り組みを取材した。

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「三陸の海から、漁業を変える。海に関わる人々の職業を、新しい3K(カッコよくて、稼げて、革新的)な職業にする」と熱く語るはせたくさん。石巻の若手漁師たちとガッチリと手を組みながら、漁師志望者の育成支援や海産物の販路拡大に取り組む彼に、活動への思いと、石巻の漁師たちの物語を聞いた。

話を聞けば聞くほど、当時まだフリーランスになって日の浅い自分にとって、彼と彼らは未来に向かってグイグイと力強く進むスーパーマンのような存在に思えた。

それから半年ほどが経っての、今回の講義。

以前は聞けなかった、“強くなる前”の話を聞けるのではないかと、期待した。

はせたくさん:
Gyoppy!』がはじまったのは、2018年の秋かな。『Yahoo! JAPAN』が“課題解決メディア”という方向性を考えはじめた時、自分はもう「フィッシャーマン・ジャパン」で海の課題解決に取り組んでいた。だからこそ新しいメディアを作るための会議に呼ばれたし、当時はSDGsについて世間の関心が高まりはじめた時期でもあって。それで、ひとりでも多くの人が海の課題に関心を持ってもらえるようにと考えたメディア『Gyoppy!』が生まれた。

個人的にはじめた取り組みが、会社の環境を活かした第二の活動につながる。「やりたいこと」をベースにした、理想的な仕事の作り方のように思えた。

はせたくさん:
当時はもう、社内でも小さなプロジェクト立ち上げ屋さんみたいになってたから。新しいプロジェクトの立ち上げにはとりあえず呼ばれる、みたいな。でも、その立ち位置に行くまでいろんなことがあったよ。


"弱者"だと思うから、「人がやらない仕事を拾う」をやってきた

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エンジニアとして働いた前職を辞めて、26歳でヤフー株式会社(以下、ヤフー)へ中途入社したはせたくさん(写真中央)。

はせたくさん:
当時は新卒みたいなもんで、何もできなかった。だからもう「なんでもやります!」って感じで。最初なんて会社宛にクレームを送った人に手紙を書いて、図書券をつけて送るのが仕事だった。

明るく話してはいるものの、社会人4年目で突然のゼロからのスタート。どんな気持ちだったんだろう。

はせたくさん:
早生まれだからか、もともと劣等感がすごく強くて。世の中で俺が最弱のやつだ、って本気で思ってたんだよ。周りの人の方が絶対すごいし、俺がぼーっとしてたら仕事なんて全部他の人が終わらせちゃうと本気で思ってて。だからみんながやらない仕事とか、こぼした仕事を拾いに行かないと、俺の生きる道はないと思ったんだよ。

"自分よりすごい人"に囲まれているからこそ、仕事を探し、拾いにいく。劣等感の強さが、新人に必要なハングリーさを育ててくれたのかもしれない。

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はせたくさん:
それから、「一歩でもいいから、期待されてたよりもやろう」とはずっと考えてた。それはヤフーに入る前の会社でもそう。事務のお姉さんたちにPCの整備をお願いされたら、一言添えて「ここもやっときました」って。そういうことの積み重ねじゃないかな。


地道な仕事論に聞こえるかもしれない。ただこの話は、仕事における『信頼の築き方』を丁寧に語っていると思う。

恥ずかしいことに、筆者が「根本的に、仕事は無い」と身に染みてわかったのは、会社を辞めてフリーランスになってからだった。会社にいた頃は、「なぜ自分のアイデアは認められないんだろう」「ちょっと経験が足りないだけだ、年を重ねればいつか」と思っていた。

今考えたら、よくわかる。大して信頼を勝ち得ていない若手が、ちょっと口先を工夫したところで、得られる仕事なんて無かったのだ。

自分の立ち位置から見つかる仕事を拾い、少しの気遣いを重ねて打ち返していく。その積み重ねで、「こいつとなら一緒に仕事ができる」と信頼を得る。仕事をするには、信頼しあう仕事仲間がいる。とても自然なサイクルが必要だった。

プロジェクトの立ち上げ屋に。必要なのは“調整力”だった。

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はせたくさん:
そのうちに、ヤフーでもちょっとした仕事があると「これやってみる?」って声かけてもらえるようになって。あるときに、それまで何年も社内で実現しなかったプロジェクトを実現できたことが評価されて、32歳で部長になれたんだけど。そのプロジェクトの実現に必要なのはただ”調整力”だったんだよ。部署を横断する企画だったから、利害関係者がとにかく多くて。

ヤフー入社以前から、徹底的に周りの仕事を見ていたはせたくさんにとって、「調整役」は向いている職能だったのかもしれない。

はせたくさん:
調整役って、どちらの気持ちもわかってないと出来ないんだよね。もともと劣等感があるタイプだったし、「俺全然できないんですけど、これってどうなんですかね?」って下から聞いてってたの。その聞き方が良かったみたいで…みんな考えていることを教えてくれた。水の流れと一緒でさ、上から下に流れていくんだよ。各ステークホルダーから聞いた「誰々にはこうして欲しい」「ウチはこうなって欲しく無い」みたいな情報をセリフとして書き出していくと、そのプロジェクトが「なんでうまく行かなかったのか」が見えてくるんだよね。

自分の立場も利用しながら、関わる人たちの利害と心情を集めていく。みんなの理解者は、みんなにとって必要な存在になった。

はせたくさん:
そうしたら、だんだん「あいつがプロジェクトに入るとやりやすい」ってことになっていった。組織の中でプロジェクトの旗を振るなら、それって大事な評価だよね。

いろんな方向を見ながら仕事をすることは、とても難しい。

筆者は昔、先輩から何度か「どっちを向いて仕事してるねん」と叱られていた。

大阪の雑誌編集部で働きはじめたころ、自分の担当する誌面の作り方について「こう作れば工程的に無理がない」と先輩に相談すると、「読者にとって何がベストか考えろよ」と言われた。その後、「読者はこれが知りたいはずです」と考えた取材内容を伝えると「こう取材されて、店がどう思うかも考えろよ」と叱られた。

自分の仕事は「みんなに喜んでもらえるはず」という驕った前提があったのだと思う。1つの方向だけ向いて仕事をしていては、みんなに気持ちよく協力してもらうことなんてできない。

組織の中でうまく動き回るには、「調整役」に必要な「関係者それぞれの要望と気持ちを知る」ことが大切だった。


『俺が世界ではじめて発見した課題なんてない』

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はせたくさん自身の若手時代から、『Gyoppy!』プロデューサーの今に至るまでの仕事史をたどるように進んできた講義。授業も終盤になり、話は最大の転機である「フィッシャーマン・ジャパン」立ち上げの話へと移っていく。

はせたくさん:
34歳くらいになって、社内では色々できることも増えてたけど、会社を飛び出すとかは考えていなくて。そんな時に、3.11の震災が起きた。

はせたくさんは、それが自身の今後を大きく変えるとも知らず、石巻の災害復興ボランティアへと向かった。

はせたくさん:
石巻に行った理由はよく聞かれるし、「俺、3月11日が誕生日でさ」とかいろんな答え方があるんだけど。俺らって阪神淡路大震災を経験した世代なの。センター試験の数日前に震災が起きて、何かしなきゃと思ってたけど、大学入って数ヶ月経っても何も出来なくて。「あの時、なにも出来なかった」って感覚が強いんだよ。だから、3.11のときは「今度こそやんなきゃ」って気持ちになって。動いた。

彼は瓦礫運びのボランティアをした石巻の漁村で、漁師たちの生活を知り、お礼にと出された牡蠣の美味しさを知り、漁師たちの未来を考えるようになる。

はせたくさん:
あの時、いろんな人が東北を元気にする方法を考えてた。石巻も「観光で元気に」なんて話もあったけど。そもそも石巻は漁村で、観光地じゃ無い。漁村が元気になるには、漁師たちが稼いで元気になるのが一番だって思ったんだよ。

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フィッシャーマン・ジャパンの活動を通して、各地の海や港に足を運ぶはせたくさん。全国の漁師たちと会って、話して、知見を広げ続けている。

ボランティア先で漁師たちと出会った縁もある。お世話になった恩もある。何か動かねば、と考えた矢先に「ボランティアへ行こう」と誘われた運もよかった。はせたくさんにとっては、石巻の漁師たちがもう身近な存在になっていた。

はせたくさん:
どうすれば自分のやるべきことが見つかるんですか?とか聞かれることもあるけど。正直言えば「俺が世界ではじめて発見した課題なんてない」んだよ。自分の近くの人が困ってること、何とかしたいと思うことがあれば、それをやるだけ。阿部勝太っていうかっこいい若手漁師との出会いがあって、そいつらと一緒に石巻と海のことをやりたくなった。

「自分が発見した課題なんてない」という言葉をPCの画面越しに聞いて、ストンと腑に落ちた。彼の話してきた仕事論に一本芯が通ったようにも思う。

漁業の未来を考えることも、海の課題解決も、これまで世界にあったものだ。でも、彼はその問題を真剣に考えてきた人々の気持ちを汲み取り、次の人たちへバトンを回していく。最弱だと自称する彼が、問題意識をこぼさず拾い、つなぎ留める。

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はせたくさん:
チームワーク論なんかでよく語られる、踊る人の動画って見たことない? 最初に動き出す1人目は「こうやっていくぞ」と旗を振る人。それと同じくらい大切なのは、2人目がどう動くかだと思う。2人目が、3人目4人目の仲間を作るきっかけになるから。だから、社会の中でやっていくためには「志を磨いて、共感を生む」ことが大切だと思う。ちゃんと活動を語って、「いいね」って思ってくれる仲間を見つけられるように。

夏の石巻取材中、震災で大きな被害を受けた大川小学校の前を通った。その時もはせたくさんは、「何もできなかった経験」の話と、「いつか、自分がやる番が来る」という話をしてくれた。

今の若い人たちで「何もできなかった」と思う経験がある人も、いつか「あの時できなかったぶん、今回はやらなきゃ」と動けるかもしれない。それは仕事でも、プライベートでも。

それは自分のことじゃなくてもいい。やりたいことが見つからず、自分を責めている人たちにはそう伝えたい。その時が来るまでは、周りにいる人々の思いに向き合い、周りを助け続けていればいい。そうすれば、できることは増えているはずだ。自分の番が来る頃には。

テキスト:
乾隼人

撮影:
キョウノオウタ

編集:
くいしん

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