日本人を知る体験
目次:
1 どのように見える日本人?
2 日本人の繊細さ
計4800字
果たして、こんな屈託ない笑顔を最近の日本では見ることができるだろうか?
年齢にして小学生低学年くらい、社会が本来の子供の姿を奪っている不自然な環境だとしたら、自然な姿で汚れのない彼らの笑顔はその純粋さゆえに私の心を奪う。
日本を出るとたくさんの疑問を持つ。いわゆる自国の文化や環境を客観的に見るというやつだ。本当に恵まれているのかも含め、考える機会になる。
たくさんの情報にあふれた今日では、日本から出なくてもできるかもしれない。ただ、体験として味わうことと、ただ見聞きすることは違うと思う。なぜなら情報を発信し、伝えるには実体験が必要だからだ。
なんでも体験する事を進めたい
ある同じ事実を伝えるにでも、いわゆる有識者と言われる方々の実体験のない人から発せられた詳細な情報より、体験した人の生の声の方が人に響くし、パワーを持つ。ということで、外国を生で体感することは大切だと思う。
これは彼ら住んでいる村だ。お金を稼げる場所ではない
1.日本人が与える負の価値観
私が2年あまり過ごしたソロモン諸島では現金収入がないから、海外に出たことがない人がほとんどである。なんなら自分の村からも出たことのない人々。自分の島から本島にいくことが、外国に出るようなものかもしれない。
私たちのように先進国から派遣された人間が異文化を持ち込むことになる。異文化に触れることがいいのか悪いのか?みなさんはどう考えるだろうか。
少なくともソロモン諸島では、我々のような日本人がきれいな服をまとい、最新のスマホを持ち、足を保護する頑丈な靴が、現地の人々の目にとまり、うらやましい目で見られる。みんな笑顔でやさしく接してくれるが、それがうれしい反面、よくよく考えてみると、悲しくなった。
我々日本人はお金がないことのむなしさを痛感させているのではないかという気持ちにかられた。
写真に載せた子供は貨幣があまり意味を持たない地方の地方に住んでいる。自給自足で生活している人々である。”このまま何も知らない方が本当は幸せなのではないか、私とも会わなかった方がよかったのでなかったのか?”とすら思った。
本当の意味での豊かさは、彼らはすでに知っている。 だからあのような素晴らしい笑顔をする事ができると思う。
日本人の私よりも人生を味わっている。自然と共存している人々に、支援をすることが豊かさを奪うことにもなるかもしれないと思うと、申し訳ない気持ちになった。
日本だと、大きな広い家をみるとうらやましいと思うのと同じ心理だ。上を見なければ満ち足りた気持ちでいれるのに、消費社会の日本からきた異人は美しく輝いて見える。そして、見たこともない物ばかり身につけている。自分たちの前に立っている。
**これは資本主義の価値観を押し付ける事を意味している。
**
彼らには全くといって、良い影響を与える価値観でない。
実際、ボランティアで海外に渡った日本人は盗難にあうことが多い。途上国に行くというのは、そういう目で見られるというのを知っておく必要がある。貧しい人のために、技術を教える以前に、格差を生む懸念。この弊害をしっておくことも国際貢献には必要だと感じた。ただ、国際貢献は先進国によるエゴと縄張り争いであるとも思う。格差は、貧しさが生みだすより、社会に最も有毒だと思う。これはきれい事かもしれないが・・・私たちはどういう立場で国際社会に貢献すべきか考える。
日本人は、ボランティアとして海外に渡り、指導者という立場を崩さない。指導がうまくいかないと、なぜうまくいかないのかとストレスをためていく。そればかりか、現地の人々によかれと思って共に生活していることで、平等に貧民だった地域社会に格差の根を植え付けているのではないか。
2. 日本人の繊細さ
外国に出て日本を客観的に見ること。私もたくさんの疑問を持つ。
最近よく思うのが、どうして、日本人のプレゼンテーション資料はやたらめったら、文字数が多いのだろうか。
よくあるあるなのが、日本人が作成する英語のプレゼン資料は、英語の文字数と図がページ一杯に飾られているため、見ている人から見ると、何が書いてあるかわからない。丁寧に説明した日本語の原文を翻訳しているので、当然、英訳したものも文字数が多くなる。
なるほど、英語で発表するときには、資料を読みながらプレゼンができるので、それは発表者にとってはいいかもしれない。ちなみに、外国人のプレゼン資料はポイントだけ書いてあり、見やすさ重視のようだ。
当然、資料だけでは不十分なので、メモを用意たりアドリブで、直接聴衆に話したりすることが好きだ。
日本人が会議等で使う説明資料の他にも、よくよく見ると、日本社会のありとあらゆる資料、(広告、パンフレット等)は文字等で溢れんばかりであることに気づく。
日本人はなぜたくさん書きたがるのか?見る人を意識しての対応だろうか。
説明を丁寧にしようとする意図はある。ただ過剰な気もしないでもない。
性格の細やかな日本人気質がそうさせているのかなと思う。個人的には、情報が紙目一杯に書かれたものを見ると、見る気がなくなるので、いかがなものか常日頃より思っている。
デザインの専門家ではないので、ただの好みの話になるが見た目が悪い。日本人はいつからこういうのに慣れきってしまって、情報がたくさん書かれたものをもらわないと、物足りなく感じ、不満を述べるようにすらなってしまったのだろうか。
これでは、文化の違いから、大部分の文字を削らないと英語ネイティブ向けの自然な英訳資料を作ることはできないので、大変な作業だろうと思う。
英訳資料を作るとき、ネイティブに好まれ、メッセージ性の強い資料にすべきか、日本人好みの綿密な説明の書かれた資料を作るべきか悩む。
仕事として受ける場合は、まずその方針をクライアントと決めないといけないだろう。クライアントが文化の違いを分かっているときはいいが、自然な英語にというクライアントの要望の自然のレベルの意味がわからないから、大幅に文字数を減らすとクレームの原因となると聞く。
結局、クライアントの好みに寄り添わざるを得なくなるので、資料のできはいまいちだ。特に重要なものでない情報も残しておこうという感じになるだろう。通訳と翻訳は違うので、通訳の仕事の場合、違う文化の違いからくる別の苦労があるかもしれない。
やはり、日本人は特殊だし、欧米とは文化が違うから、言葉を学ぶには、まず文化の違いを学ぶことも重要である。
こんなにいい笑顔をする同年代の子供は日本にいるだろうか?年齢にして小学生低学年くらい、何にも汚されていない彼らの心は純粋で見ている私が癒された。
日本を出るとたくさんの疑問を持つ。いわゆる自国の文化や環境を客観的に見るというやつだ。本当に恵まれているのかも含め、考える機会になる。たくさんの情報にあふれた今日では、日本から出なくてもそれはできるかもしれない。ただ、体験として味わうのと見聞きすることは違うと思う。なぜなら情報を発信し、伝えるには体験が必要だからだ。
ある同じ事実を伝えるにでも、有識者の実体験のない人から発せられた詳細な情報より、体験した人の生の声の方が人に響くし、パワーを持つ。ということで、外国を生で体感することは大切だと思う。
私が2年あまり過ごしたソロモン諸島では現金収入がないから、海外に出たことがない人がほとんどである。なんなら自分の村からも。自分の島から本島にいくことが、外国に出るようなものかもしれない。
私たちのように先進国から派遣された人間が異文化を持ち込むことになる。異文化に触れることがいいのか悪いのか?みなさんはどうだろうか。少なくともソロモン諸島では、我々のような日本人がきれいな服、最新のスマホを持ち、足を保護する靴で歩くことで、現地の人々にうらやましいと思われる。みんな笑顔でやさしくしてくれるが、うれしい反面、よくよく考えてみると、悲しくなった。
どうやら、お金がないことのむなしさを痛感させているのではないかという気持ちにかられた。
写真に載せた子供は貨幣の流通なんてあまり意味を持たない地方の地方に住んでいる。自給自足で生活している人々である。このまま何も知らない方が本当は幸せなのではないか、私とも会わなかった方がよかったのでなかったのか?とも思った。
本当の意味で豊かさとは、彼らはすでに十分に味わっているし、だからあのような素晴らしい笑顔をする事ができると思う。そして、日本人の私よりもわかっているのでないか? 豊かさを勘違いさせるきっかけになるのでないか、と申し訳ない気持ちになった。
日本でも、お金持ちの大きい家をみるとうらやましいと思うのと同じ心理だ。上を見なければ満ち足りた気持ちでいれるのに、消費社会の日本からきた異人は美しく輝いて見え、欲しくなるようなものばかり身につけ、自分たちの前にたっている。
これは資本主義の価値観を押し付ける事を意味している。
彼らには全くと言って、良い影響を与える価値観でない。
実際、ボランティアで海外に渡った
日本人は盗難にあうことが多い。途上国に行くというのは、そういう目で見られるというのを知っておく必要がある。貧しい人のために、技術を教える以前に、格差を生む懸念。この弊害をしっておくことも国際貢献には必要だと感じた。国際貢献は先進国によるエゴと縄張り争いであるとも思う。格差は、貧しさが生みだすより、社会に最も有毒だと思う。これはきれい事かもしれないが・・・私たちはどういう立場で国際社会に貢献すべきか考える。
日本人は、ボランティアとして海外に渡り、指導者という立場を崩さない。指導がうまくいかないと、なぜうまくいかないのかとストレスをためていく。そればかりか、現地の人々によかれと思って共に生活していることは、無意識に社会に格差の根を生み出しているのではないか。外国に出て日本を客観的に見ること。私もたくさんの疑問を持つ。
最近よく思うのが、どうして、日本人のプレゼンテーション資料はやたらめったら文字数が多いのか?
あるあるなのが、日本人が作成する英語のプレゼン資料は、英語の文字数と図が多く一枚のページに並べられて発表時に見ている人が非常に見づらい。日本語で作成した後翻訳しているので、当然、原文がそういう状態なので、英訳したものも文字数が多くなる。
発表するときに、資料を見ながら英語のプレゼンができるので、それは話者にとってはいいかもしれない。ちなみに、外国人のプレゼン資料はポイントだけ書いて、見やすく作成されている。
かといって、外国人は説明が足りない部分は、メモを用意し、直接聴衆に話す。
日本人が会議等で使う説明会などで配布される資料の他にも、よくよく見ると、世間にあふれた広告、パンフレット等文字数がめいっぱいに描かれているのに気づく。
日本人はなぜたくさん書きたがるのか?
説明が丁寧すぎるというのはひとつにある。
性格の細やかな日本の人種がそうさせているのかなと思うが。個人的に、ものすごい量の情報量が紙目一杯に書かれたものを見ると、見る気がなくなるので、この日本人の特殊性はいかがなものか常日頃より思っていた。
デザインの専門家ではないので、好みの話になるが見た目が悪い。日本人はいつからこういうのになれてしまって、情報量がたくさん書かれたものをもらわないと、不満を述べるようになってしまったのだろうか。これでは、英訳資料を作るのも大変なものだろうと思う。
見やすさを重視するか、日本人好みの英訳資料を作るか、かといって自然な英語にというクライアントの要望はついてまわるだろう。不親切のレッテルを貼られるのがこわくなり、特に重要なものでない情報も書いておこうという感じになるだろう。
やはり、日本人は特殊だし、欧米とは文化が違うから、言葉を学ぶには文化の違いを学ぶことも重要である。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?