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考えるのをやめてしまったことはなんだろう

本来、手っ取り早く結論の出る問題など存在しません。

国谷裕子

PHP No.906 p.46
株式会社PHP研究所

 12月も中旬に差し掛かり、なんとなく気忙しくなってくる時期になってきました。
 来月が13月ならこんなことはないのでしょうが、迎えるのは1月。
 やはり、1年最後の月が1年最初の月に移り変わるときだけは、いつもとは違う特別な感じがします。

 気忙しさを言い訳にするわけではないのですが、本を読んだり、映画を見たりという時間を取ることがなかなかできません。
 そんなときにはなるべくPHPを手元において読むようにしています。
 一つ一つの文章がスキマ時間に読める程度の長さなのがありがたいです。

 冒頭の一文は、そんなPHPからのものです。長い間、NHK『クローズアップ現代』のキャスターをされていた、ジャーナリストの国谷裕子さんの言葉です。
 本文ではその後、『わかりやすさを追求し、単純化して伝えると、人々はそれ以上考えなくなります』と続き、マスメディアの役割やあるべき姿へと話が広がります。
 
 私はこの文章を読んでメディアに関してではなく、以前何かで読んだ「脳のクセ」に関することを思い出しました。
 私達の脳は、「分からない(知らない)」ということを本能的に嫌うそうです。
 また、「自分が信じていることに対して都合のいい情報を集める」とか、「アンテナを張っている情報以外が目に入らない」というクセもあるようです。
 これらは、生存本能や脳が楽をするためなど、色々な理由があるそうですが、その理由の一つとして、「考える」という行為はとても労力が必要となるからだと思われます。

 なぜ、これらを思い出したのか。
 私達の脳にはこのようなクセがあるので、分かりやすい解説や断言するような情報や論を追い求めてしまう。
 これが、ニュースや報道にたいしてだけであれば、それはメディアリテラシーを身につければいいのですが、もしかしると、「自分自身のこと」に関しても言えるのではないか。そう思ったからです。

 「考える」という行為はとても労力が必要になる。そのため、意識をしないと、人間は考えるという行為を避けてしまうのではないか。
 また、考え続けるのが大変なので、本当は自分は納得をしていないのに、まだ答えが出ていないのに、借りてきた答えを置いてしまうのではないか。
 当然、その置いた答えは借りてきたものなので、自分の考えとは異なり違和感がある。そのギャップに悩み苦しむのではないか。
 そのように私は考えています。

 とはいえ、独りで考え続けるのは大変だし、孤独です。また、いつ答えが出るのかも分かりません。
 それでも、自分の納得がいく答えを出せるまで考え続けることは、人生において意味のある行為だと私は思います。
 考えすぎて行動ができなくなってしまうのは問題ですが、そんなときは「仮の答え」でもいいので、自分で考えた答えを置いておき、それを基に行動をしてみる。
 ただ、それは「仮の答え」なので、常に冷静に考え続け、色々な意見や情報を意識的に取り入れる。
 そうやって行動をしながら考え続けていくうちに、自分の納得がいく答えを出せるのではないか。
 記事本文からはだいぶ離れてしまいましたが、そのようなことをこの記事を読んで感じました。

 考えるのをやめてしまったことはなんだろう
 独りで考えるのが辛く、孤独で悩んでいる方。
 考えをどのように言葉にしていいのかが分からなく辛い方。
 いつでもご相談ください。

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