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気付いたら遠くまできていた

本記事は、マイナビ×note投稿コンテスト「#想像していなかった未来」への応募作品です。

温室育ちだと思います。
自分で言うのもおこがましいですが。

買ってもらえなかったものも、習えなかった習い事も、聞き入れてもらえなかった我儘も、ほとんどありません。何不自由なく育った子供時代なので、此処から何処か遠くへ行きたいとは思ったことも当然ありませんでした。

ピストルズとヴィヴィアンウエストウッドが好きだった私は、高校生の時に英国へ1カ月のホームステイに行きましたが、現地の人々の手荒い歓迎に泣いて帰ってきてからは、その意思を更に確固たるものにしました。


そんな私の人生に転機が訪れたのは、下北沢にあった小さな会社でプログラマーのアシスタントをしていた時です。
当時付き合っていた彼の会社が倒産。大した経歴はないけれど英語だけは操れた彼が、新しい転職先に選んだのはシンガポールにある企業でした。

ついてきてほしいと言われた私は当然お断りしましたが、諦めの悪い夫についには粘り負けし、数年後、スーツケース2つで渡星することにしました。


新しい新居には優雅な新婚生活は見当たらず、待ち構えていた貧乏暮らしを支えるべく、私は職探しに奔走しました。転職エージェントへ相談に行き、英語のレベルチャックをされては「もう少し英語を勉強した方がいいですよ」と冷たく諭される日々でした。

やっと見つけた仕事も、入社後1年はやめられないという恐ろしい契約書と、熱帯モンスーン気候のこの国では誰一人履いていないストッキング着用が義務という謎の昭和ルールに縛られた漆黒のブラック企業でした。同僚たちは皆、私のように英語が流暢ではないので、「それでも雇ってくれたのだから」という負い目を感じながら労働しておりました。

温室生まれ温室育ちの私がこの環境に耐えれるわけもなく、早々に転職。恥ずかしい思いや、失敗を繰り返し、人に笑われトイレで隠れて泣きながらも、それでも必死で生きていく日々が続きました。

そんな中でも2人の子供を出産し、自分と夫と子を生かすために、あっという間の5年間を全力で走り抜けました。気づけば、片言の英語でも理解しようとしてくれる顧客、頼りになる上司、優しいママ友達に囲まれ、僕はシンガポール人だ!と主張する幼稚園生の息子と、中国語でNO!しか言わないイヤイヤ期の娘と、優しい夫と共に、慣れ親しんだ南国で、楽しい毎日を過ごしていました。


それからしばらくして、英語しか武器がなかった夫は、海外法人営業数年の経験を引っ提げて、大手企業への転職に成功し、アメリカ駐在員の座を手にしました。


世界中の時が止まってしまったコロナ禍をじっとやり過ごしてから、少しずつ新しい日常を取り戻し、そして今、フードデリバリードライバーとしてアメリカの田舎道を運転している私がいる未来を、誰が予測できたでしょうか。少なくとも、あの温室育ちの我儘お嬢様は一切想像していませんでした。

こよなく日本を愛する小学生の息子と、すっかりアメリカンガールになった勝気な娘と、優しい夫と共に、多文化や様々な人種の隣人たちにもまれつつも、楽しい毎日を今も過ごしています。

広大な畑の中を突っ切る一本道を時速50マイルで走りながら、目前に広がる大きな空が夕日でオレンジ色と紫色に染まるのを見ると、ずいぶん遠くまできたなぁと、ふと気づくのです。

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