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狼だぬきの欠落、あるいは穴ぼこ

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#エッセイ

メランコリー・ルーム

 結局のところそれは自己防衛に過ぎなかったのだが、世界が完璧にメランコリーに見えていた時分があった。決まる気配のない定職を見かねて愚痴る母親も、自由業に好奇と羨望と軽蔑を等しく向ける過去の友人も、大型書店に並ぶ大成した経営者が著したハードカバーも、ちっともいいねが付かないアーティスト気取りのTwitterアカウントも、全部だ。全部がモノトーンで、無機質で、陰鬱な様相を呈していた。 *  そのころの僕はと言うと、完全に自己の中に存在していた。どこから見るか、どこを見るかとい

告白

 告白しよう。狼だぬきはこれまでの人生において、重大な勘違いをしていた。その勘違いによって、彼は自らを生きづらくさせたし、世界をつまらないものにさせた。  その勘違いとは、「人々は閉じている」という偏屈な認識である。人々は閉じていて、冷たくて、やさしくない。  そのため、彼は有事の際には自分の内側の深いところまで逃げなければならなかった。誰も入れないであろう暗部に身を潜めて、重厚な壁をもって繊細な自分を守らなければならなかった。それが信念だった。  しかし、いま気づいた。

「天気の子」は「転機」そのものだった【ネタバレなし】

 大ヒット上映中の「天気の子」を観た?ぼくは観たよ。内緒にしておいてほしいんだけど、2回も。「君の名は。」は3回劇場に足を運んだから、「天気の子」でも少なくともあと2回は観に行くだろうな。つまりはすごくよかったんだ。もちろん、内容には触れないよ。ネタバレは無粋で、ぼくは粋だからね。  ぼくは、実は新海誠監督の作品が大好きなんだ。距離の美学、切なさを受容するかのような、あるいはそれすらも美しいと捉えるかのような描写。もしくは審美眼。ポエティックなセリフ。青く、脆く、刹那的で、

実は一番の抗うつ剤は「90年代後期ミスチル」だった【前編】

 また太陽が昇ってしまった、と窓の外に目をやる。「明けない夜はない」みたいな言葉が使い古されていて、ほとんどなんの重みも感動ももたらさないと思っていた。でも、本当に明けない夜はない。毎日、正確な時間に太陽が登る。憎くて、でもちょっと嬉しい事実だな。  最近夜になったらミスチルをずっと聞いている。小学校のときに「抱きしめたい」をひょんな機会で聴いて、それ以降90年代のミスチルを中心にウォークマンが擦り切れるくらい聴いた。もちろん、ウォークマンは擦れないし切れないけれど。なんに

コンプレックスがなかったら文章なんて書かねえよ、みたいな雑文

 「あなたはなぜnoteを書いているのですか?」と聞かれたら、どのように答えますか?noteだけで飯を食っているという人はごくわずかだと思うので、「生きるために」みたいなライスワークとして回答する人は少ないだろう。むしろ、金になるかならないかを置いておいても立ち現れてくるような表現活動の広場としてnoteというメディアはあるのだろう、くらいに考えている。  「あなたはなぜ文章を書くのですか?」という問いの置き換えてもいいかもしれない。ほとんど一銭にもならない「文章を書く」と

世界を救うのはアベンジャーズではなく「意味の無さ」らしい、みたいな雑文

 起業家のメンタルヘルスの問題がある。今それにぶち当たっている狼だぬき自身、事業を経営して4年ほどになるいわゆる起業家にあたる。いわゆるというのは、自分自身を「起業家」「サラリーマン」のような図式にはめ込むことに特に意味と価値を見出していないが故の注釈のようなものだ。それでも、分かりやすく言うと「起業家」に当てはまると、思う。それで書き進める。  そして経営していく中で、いわゆる「起業家のメンタルヘルスの問題」らしきものにぶち当たり、結果的に生まれたのがこの狼だぬきだったわ

「朽ちゆくものの美」こそ、絶望を肯定する

 「自分のことなんて、誰もわかってくれない」なんて言ってこうべを垂らして、小部屋に篭って、関係性を自ら断絶して、分かり合える可能世界を消失させて、そのくせ世界を嘆いて誰かのせいにして、それでいて他でもない自分自身に一番嘆いていることに気づかないフリをしていた時期が、20代始めにあった。  世界は自分自身の欲望や精神的欠損が投影され、ぼくの前に現れる。そういう認識を持ってからは、余計に自分自身が惨めで、健気で、憎らしかった。「分かり合える世界を」なんて絵空事を掲げて、その実も

祇園四条を歩いていたら、「うまく歩けなく」なってしまった

 「人生をまっすぐ歩けなくなったあなたへ」という題名を入力し、こっそりと消した。幾分直接的すぎるその表現は、ぼくとあなたの間に大きな隔たりをつくりそうだったからね。ぼくはあくまで、ぼくのために文章を書いているんだ。誰のためでもない、自分自身のために。このアカウントとその文章たちは、あなたとぼくの秘密でしかない。それ以上でも、以下でもないんだった。  今、京都に来ている。三条で見つけたスパニッシュ・バーに19時頃に入店し、90分でサングリア、赤白のワイン数種類などが飲み放題の

一人の起業家で独りの文筆家の「絶望」について

0:「起業」あるいは「夢追い」の絶望 世界は幾分キラキラしすぎている。そこに、文句を垂れようと思う。もちろん狼ダヌキ個人にとってという注釈が付くが。「そーしゃるねっとわーくさーびす」のせいだろうか、日本人の満たされない尊厳欲求は、インフレを起こしている。オンラインサロン加入だって、リクルートの内定だって、なんならタピオカだって、全部虚構なのに。  今、夢を語ることは尊いとされている。教養と思慮の深い一部の起業家によって、夢を追うことは実は泥をすするようなものだという認識も広

自分を説明したくないから、物を書くしかなかった

 自分のことを説明したくない。この感情がいつもコミュニケーションを邪魔する。社会への適合を阻害する。自我と社会に越えようのない絶望を生み出す。表面的に発してしまった言葉は、曲解され、あるいは深淵まで理解を誘うことなく関係性へ齟齬を生む。結果、ぼくは「コミュ障」の烙印を押される。コミュニケーションは関係性の問題なのに。  物事の説明は結構うまい方らしい。ずっとそう言われてきた。なぜ積分をすると面積を求められるのか、とかどうして日本の教育は画一一斉授業になったのかとか、東洋思想

「2091年」、あるいは2019年

2091年の世界。価値観になりたい。  権力は世界を豊かにしない、というのが狼だぬきの基本的な姿勢である。ピケティだって言ってた。r>gだから、格差は拡大し続ける。rもgもなんなのかはわからないけれど、偉い経済学者が言うんだから、おそらくそうなんだろう。つまり人間は、時間の累積が無機質に不公平を増やし続けるシステムに生きている。「持たざるもの」の子孫は不幸になる運命なのだ。緩やかに、それでいて複利的に。統計的な証明。統計は、あんまり嘘はつかない。嘘をつくのは物書きの役割だ。

物書き的な視点、その意味のなさ

「小説家とは、多くを観察し、わずかしか判断を下さないことを生業とする人間です」 (『職業としての小説家』村上春樹 )  物を書くというのは、話すに足りない、些細でどうでもいい世界の変化をなるべく丁寧に描写し、それが暗示する心の繊細な機微をできるだけ伝わる形へと変換することだ。海外旅行で使う、電圧変換プラグのように。一方にとって意味があるものを、他方にも価値ある何かへと変換させる手続きのプロセスと結果である。部分的に。  noteに文章を書き起こすようになって、6日目になっ

大きな声で語るということ

 一つ、気をつけていることがある。なるべく大きな声で話さないことだ。声は大きいほど、比例して正しく聞こえてしまうからだ。確かに、声が大きいというのはある程度自信に比例するだろう。自信があるのであれば、正しい可能性は小さくはない。少なくとも、小さな小さな、消え入る声で発される、太陽の光で今にも蒸発しそうな朝露のような意見に比べれば。  一方、こうも取れる。声が大きいからといって、自信があるからといって正しいとは限らないのだ。テストを思い出そう。自分の解答に対する自信は、予定ほ

不歓迎社会日本

 一億総中流社会。妬み嫉妬社会。格差社会。学歴社会。少子高齢化社会。シルバー民主主義社会。「○○社会」というフォーマットでの日本への揶揄は後を絶たない。あらゆる日本人は自分自身や付近の環境を観察し、その「感情的な問題点」を「社会」に投影して批判する。やれやれ、どいつもこいつも人のせいに...と、ぼくもまた、人のせいにする自分自身を社会に投影し、嘆く。それに気づき、再び絶望。絶望したら川へ行こう。正しく絶望できる数少ない場所が都会の川だ。人間は嫌になるなあ  今日は自己の精神