マガジンのカバー画像

主に世界と人間について書かれたエッセイたち

29
運営しているクリエイター

#文章

「自由」や「幸福」なんて、やめちまえ

インフルエンサーにインフルエンスされていても、世界は幸福にも自由にも傾かない  「一億総活躍社会」が近づいているらしい。うそつけ、なんて十三の雑踏に控えめに吐き出す。「個の時代」とか「信用の時代」とかなんとかうそぶいて、分断は余計に広まっているようにすら思える。  誰も彼もが「ブログだ!」「コミュニティづくりだ!」と声高らかに、コミュニティとは名ばかりのサークルをつくっている。  猫も杓子も「正解はないよ」だなんて言って、みんな大して考えもせずにインフルエンスされて自分

陳腐な発言をしないための陳腐な発想

 誰かと会話をしているとき、うんざりすることがある。とりわけ人間とか世界とか、そういう類のものについて話しているときにだ。自分の発している言葉が何か直接的で単線的過ぎて、世界にある膨大な前提や条件、要素を等閑に付して言語化しているような気がしてくる。もっと美しく残酷であるはずの世界をちっとも表せていないことに半ば絶望し、半ば嬉々として、しどろもどろ。  言語は世界をカテゴライズするものとして機能する。形のないものにカタチを与える。そうして僕たちは世界を認知してきたわけだが、

独善的世界認識のすヽめ

 正直、読まないで欲しい。このノートは、どれだけ人の世が絶望で溢れているかを書き連ねる掃き溜めにすぎない。なぜなら、人の世、つまり世界はそれくらい絶望的であるからだ。この記事は、世界そのものだ。この一説を知っているだろうか。 山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。 (『草枕』夏目漱石)  「夏目漱石なんて、堅苦しくて」なんて、人は純文学を敬遠するが、意外と悪くないものだな、と思う。純文学だけ

大きな声で語るということ

 一つ、気をつけていることがある。なるべく大きな声で話さないことだ。声は大きいほど、比例して正しく聞こえてしまうからだ。確かに、声が大きいというのはある程度自信に比例するだろう。自信があるのであれば、正しい可能性は小さくはない。少なくとも、小さな小さな、消え入る声で発される、太陽の光で今にも蒸発しそうな朝露のような意見に比べれば。  一方、こうも取れる。声が大きいからといって、自信があるからといって正しいとは限らないのだ。テストを思い出そう。自分の解答に対する自信は、予定ほ