平和の塔に刻まれた願いを、今
今回の記事は、少し勇気を出して書いてみたいと思います。
もしかすると、読んであまり良い気持ちがしない方もいるかも知れませんし、歴史をきちんと学んだとは言えない私が書いて良いものか、悩む部分もありましたが、自分の中で、やはり今、自分自身に問いかける意味でも書いてみたいと思い、文章にさせて頂きました。
宮崎市に、平和台公園という場所があります。
見晴らしのよい高台にあり、3000坪の広大な敷地には、大きな池を囲むジョギングコースや、アスレチック広場、レストハウスなどがあり、市民の憩いの場になっています。
その平和台公園に一段と高くそびえる、平和の塔。
この塔の真ん中には「八紘一宇」という言葉が刻まれています。
この言葉を聞くと、戦争とリンクする方もいらっしゃるかと思います。実際に、太平洋戦争時に、海外進出、つまり侵略を正当化するための標語とされた言葉だからです。
「言霊」と言われるとおり、言葉には、それを発した人の思いや、その言葉に対して人々が持っている感情が、乗ってくるものだと思います。
なので正直、八紘一宇という言葉の重みが、その時代を生きていない私の想像を遥かに超えたところにあるような気がして、使うのが怖いな、という気持ちもあります。
でも、この言葉の本来の意味を、今改めて考えてみる必要があると思ったのです。
八紘一宇の「八紘」は、糸が8つの方向に広がる様子で、全世界を意味します。
「一宇」の宇は、家のことで、つまり八紘一宇は、世界を一つの家とするという意味です。
世界が一つの家ならば、この地球に住む生き物全てが、家族ということです。
太平洋戦争時は、世界を一つに、という捉え方でこの言葉を利用したのでしょうが、本来の意味は、全ての命あるものは、みな家族だと言うことです。
レジの店員さんが、
同じ電車に乗り合わせた人が、
離れた土地に住む名前も知らない人が、
これから生まれてくる人が、
自分の家族だったら。
そう考えると、ほんの些細な日常の行動や選択、かける言葉が、変わってくるように思うのです。
今、不安を感じてしまうようなニュースが連日流れてきます。(本音を言ってしまうと、不安を“煽る”ニュースが多いなと個人的に感じています。)
生き物の本能として、不安を感じた時に自分の身を守ろうとするのはとても自然なことですが、
その時でさえ、野生の動物も、私たち人間も、「自分」の中に「家族」も含めて、守ろうとしますよね。
その「家族」の範囲を、一人一人が、ほんの少しでも広げることで、今私たちを取り巻いている空気が、大きく変わるような気がしています。
ところで、平和の塔は戦後、GHQの政教分離の指令により撤去されることになったのですが、八紘一宇の文字や、塔の背面の碑文を削り取ることで、何とかその姿を留めることになりました。
もともと八紘之基柱(あめつちのもとはしら)という名前であったのを「平和の塔」と改めた後、八紘一宇の文字は、再び、塔に刻まれることになりました。
今もたびたび、この言葉を政治家の方が使ったりすると物議をかもしたりして、使うことへのハードルが高い言葉だと感じますし、この言葉で傷つく人がいるならば、わざわざ使う必要もないと、私は思っています。
ただ、なぜこの言葉が塔に再び刻まれることになったのかに思いを馳せると、やはりこの言葉の本来の意味が、私たちにとって、重要なメッセージだからだと思うのです。
また、刻まれた八紘一宇の文字の元の書は、今の上皇様の伯父にあたる秩父宮様のご染筆によるものです。
言葉自体の重みとは対照的に、とても優しく澄んだ文字の形だなと私は感じます。
平和の塔は、歴史の中で、形を変え、名前を変えながら、言葉本来のメッセージを伝えるため、今も高台から私たちを静かに見守ってくれています。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?