「深読み LIFE OF PI(ライフ・オブ・パイ)&読みたいことを、書けばいい。」志賀直哉『小僧の神様』篇⑧(第275話)
前回はコチラ
2019年9月20日 朝
スナックふかよみ
では、第四場の後半を見ていきましょう…
Aは小僧を思い出して、こう言いました。
「何だか可哀想だった。どうかしてやりたいような気がしたよ」
それに対してBは、こう答えます。
「御馳走してやればいいのに。幾らでも、食えるだけ食わしてやると云ったら、さぞ喜んだろう」
Aは言った。
「小僧は喜んだろうが、こっちが冷汗ものだ」
BはAをからかった。
「冷汗? つまり勇気がないんだ」
Aはこう弁解する。
「勇気かどうか知らないが、ともかくそう云う勇気はちょっと出せない。直ぐ一緒に出て他所(よそ)で御馳走するなら、まだやれるかも知れないが」
そしてBは理解を示す。
「まあ、それはそんなものだ」とBも賛成した。
第四場の後半は、庶民を見下した貴族の嫌らしい「自己満足」だとか「上から目線」だと読む人が多い…
だけど志賀直哉は、そんなことを書いてるんじゃないのよね…
ただ「Aがヨハネであること」を説明してるだけ(笑)
どういうことでしょう?
まずAが最初に言った「どうにかしてやりたい」は、これのこと。
『ヨルダン川での洗礼』
Michael Angelo Immenraet
そして「御馳走してやる」とはヨハネの役割のことじゃな。
え?
そもそも「御馳走」とは、「ある目的を達成するために方々を走り回る者」を意味する「馳走」の丁寧語・尊敬語じゃ。
なるほど…
「食」に関する言葉なのに「馳せる」とか「走る」という字が使われているのは、そういう理由だったんですね。
そして正教会ではヨハネを「Fore Runner」と呼ぶ。
日本語では「前駆」、つまり「前を走る者」…
メシアの預言成就というゴールをお膳立てする者、という意味じゃ。
「御馳走」は、キリストの預言成就へつなぐ行為…
ヨハネは、メシアの前を走るランナー…
ランナーといえば、爆風スランプの歌を思い出しますね。
うふふ。思い出すのも当然…
このミュージックビデオは『小僧の神様』が元ネタ。
えっ!?
横丁の路上にいた寿司職人が走って、荷物を運んでいる人にバトンを渡す…
段ボール箱を持った人に…
あっ…
横丁にある屋台の鮨屋に行く時に、小僧仙吉が運んでいた「分銅の入ったボール函」だわ…
ちなみに、段ボール箱を運んでいた髭面の男は、最終ランナーの少年にバトンを渡す…
何か文字の書かれた赤い服を着る少年に…
その際に男は膝をつき、前かがみの姿勢で、右手の人差し指を上に向ける…
それがどうかしたのですか?
この絵にそっくりよね(笑)
『洗礼者ヨハネ』
マッティア・プレティ
なんと…
女性チームだって負けてはいないよ。
スペシャルゲストの増田明美は、肌と同じ色をした服を着て、笑みを浮かべながら右手の人差し指を上げていた…
まさか、これも…
笑みを浮かべる女性のように描かれたダ・ヴィンチのヨハネだね。
『洗礼者ヨハネ』
レオナルド・ダ・ヴィンチ
何なのコレ…
ヨハネの右手に重ねられた杖まで再現されてるじゃん…
そして最後は2本のバトンが合流して1つになる…
十字架の完成ね。
ちなみに「ヨハネの日」は、クリスマスの6ヵ月前…
ユリウス暦が使われていた16世紀までは1月7日がクリスマスだったので、7月7日が「ヨハネの日」でした…
今でも正教圏では7月7日を「ヨハネの日」として祝います…
7月7日はヨハネの日?
『Runner』のミュージックビデオで最後に男女が出会うのは…
おそらく「ヨハネの日」と「七夕」を重ね合わせた演出…
うわあ…
今さら驚くこともあるまい。
「いつか辿り着いたら君に打ち明けるだろう」
ヨハネはイエスが辿り着くのをヨルダン川でずっと待っておった。
「あなたは神の子羊。究極の愛を示すための生贄」ということを打ち明けるために。
じゃあ「冷汗」とか「流れる汗もそのままに」というのは…
ヨハネは「水にてバプテスマを施こさしめし者」だ。
水が滴るのは当然のこと。
そしてAはこう言った。
「直ぐ一緒に出て他所(よそ)で御馳走するなら、まだやれるかも知れない」
この意味わかるかしら?
第五場で描かれる神田の秤屋と、第六場で描かれる神田今川橋の鮨屋のことですよね?
それもすべて『ヨハネ伝』の再現になっている。洗礼を終えた直後の展開そのままに。
まずは第五場を見てみよう。
冒頭で志賀はこんな説明をするわ。
Aが小僧仙吉の店に行くことになる「きっかけ」は、風呂場で子供の体重を計る秤を買うためだったと。
Aは幼稚園に通っている自分の小さい子供が段々大きくなって行くのを数の上で知りたいという気持から、風呂場へ小さな体量秤を備えつける事を思いついた。そして或日彼は偶然神田の小僧の居る店へやって来た。
この導入部には、いくつものキーワードが散りばめられている。
「Aの小さい子供」「風呂場」「体重をはかる秤」「神田の小僧」…
これは「幼児のヨハネ」「脱衣」「天秤棒」「神の子羊イエス」を想起させるものだね。
どういう意味?
志賀はこの絵のことを言っているんだよ。
『聖なる幼子イエスとヨハネ、貝がらと共に』
バルトロメ・エステバン・ムリーリョ
貝がらと共に? 子羊じゃなくて?
よく見てごらん。手には「白い貝がら」が描かれている。
ホントだ。
イエスがヨハネに貝を手渡しています…
ヨハネがイエスに手渡しているんじゃない?
「これ頼むわ」って。
どちらにせよ、この絵の構図は「イサクの燔祭」に重ねられているわよね…
丘の上、石のテーブル、その上にほぼ裸で乗る人、その横で手に何かを持ち跪く人、空から降りてくる天使…
そして、その一部始終を見ている羊…
『イサクを生贄にするアブラハム』
ローラン・ド・ラ・イール
ホントだ…
まったく同じ構成です…
この時、天使はアブラハムにこう告げた。
創世記 第22章16-18
「主は言われた、『わたしは自分をさして誓う。あなたがこの事をし、あなたの子、あなたのひとり子をも惜しまなかったので、わたしは大いにあなたを祝福し、大いにあなたの子孫をふやして、天の星のように、浜べの砂のようにする。あなたの子孫は敵の門を打ち取り、また地のもろもろの国民はあなたの子孫によって祝福を得るであろう。あなたがわたしの言葉に従ったからである』」
そしてアブラハムから「3ⅹ14」つまり42代目の子孫としてイエスが生まれ、イサクのように「神のひとり子」として生贄となる。
父である神は地上に姿を表せないので、アブラハムの役はヨハネが演じることになった。
だからヨハネはイエスを一目見た瞬間「神の子羊」と呼んだんだね。
あの絵画『聖なる幼子イエスとヨハネ、貝がらと共に』は、それを表現したものだったというわけだ。
なるほど…
幼児にナイフは持たせられないから、貝がらにしたってことか…
そして志賀は、Aと小僧仙吉について、こう書いた。
仙吉はAを知らなかった。然しAの方は仙吉を認めた。
Aは仙吉がいることを知らなかった。
しかし、仙吉の姿を見て「これは鮨の御馳走を実行する時だ」と悟る。
ヨハネがヨルダン川でイエスを見た時のことね。
その日ヨハネはイエスと会うことを知らなかった。
だけどヨハネはイエスをひとめ見て「神の子羊」だと理解し、メシアの前駆としての役割を実行する時だと悟る。
31 われ素(もと)より此人(このひと)を識(しら)ず 然(され)ど我(わが)來(きた)りて水にてバプテスマを施(ほどこ)すは彼をイスラエルの民たみに顯(あらは)さんが爲(ため)なり
秤屋の店内には、大きなものから小さなものまで、いくつもの秤が置かれていた。
Aはその中から最も小さいものを選ぶ。
なぜならAはヨハネだから。
イエス曰く、洗礼者ヨハネは地上では最も大きいものであるが、天国では最も小さいものである。
Aは秤を車宿まで運ばせるため、番頭に小僧仙吉を外に連れ出す許可を得ます。
そして番頭はAに氏名住所の記入を求め、Aは偽名とデタラメの住所を書きました。
秤を買ったAが小僧仙吉を連れ出すのは、洗礼の後にヨハネが弟子へ「神の子羊と一緒に行け」と言ったことだね。
そしてイエスは「何をお求めなのですか?」と聞き、ヨハネの弟子はイエスに「どこに住んでますか?」と尋ねた。
秤屋での描写も『ヨハネ伝』第1章そのまんまですね…
そして第六場…
小僧仙吉は秤を乗せた荷車を引き、Aの後をついて近所の車宿まで行った。
Aはそこで車を手配し、自分は乗らずに秤だけを自宅へ送らせる。
そしてAは小僧仙吉に「ついてきなさい」と言い、とある鮨屋まで歩いて行く。
神田今川橋、松屋の近くにある「評判の鮨屋」ですね。
第一場で二人の番頭が噂していた店です。
まずAは、小僧仙吉を外で待たせ、ひとりで鮨屋に入る。
Aが出て来ると、その後ろから「若い品のいい かみさん」が現われ、小僧仙吉に店に入るように言った。
そしてAはそのまま逃げるようにして帰ってしまう。
なぜAは慌てて逃げ帰ったのかしら?
うふふ。
そもそもAは、この場面に居てはいけない人。
だから急いで立ち去ったのよ。
なぜ?
だってAは洗礼者ヨハネ…
洗礼を授けた後、ヨハネはイエスと行動を共にしなかった。
その代わり二人の弟子に、イエスに従うよう指示したのよね。
あ、そうだった…
ヨハネは、イエスに二人の弟子を託した…
Aは、鮨屋の夫婦二人に小僧仙吉を託した…
だから志賀は、まず鮨屋の若女将「かみさん」を小僧仙吉に会わせたんだ。
『ヨハネ伝』の通りに。
40 ヨハ子の曰(いひ)し言(こと)を聞(きゝ)てイエスに從(したが)へる二人の者の其一人(そのひとり)はシモン・ペテロの兄弟アンデレなり
41 かれ先(まづ)その兄弟シモンに遇(あひ)て曰(いひ)けるは 我儕(われら)メッシヤに遇(あへ)り メッシヤを譯(とけ)バ キリストなり
Aに指示されて小僧仙吉と先に会った「かみさん」が、ヨハネに指示されてイエスと先に会ったアンデレ…
後から小僧仙吉と会う鮨屋の主のほうは、同じく後からイエスと会ったシモン・ペトロ…
この店の主が「与兵衛の息子なにがし」だったのは、こういうこと。
え?
ペトロの本名は「ヨナの息子シモン」よ。
ヨヘエの息子と、ヨナの息子…
そういうことだったのか…
そして第一場では、番頭が「与兵衛の息子の名前」を思い出せなかった。
これはペトロの呼び名がややこしいから。
本名は「ヨナの子シモン」なのにイエスから「ケパと呼ばれるべき」と言われ、それなのにその後は一度もケパとは呼ばれずに「ペテロ」と呼ばれる。
42 即(すなは)ち彼をイエスに携往(つれゆき)しに イエス視(み)て之(これ)に曰(いひ)けるは爾(なんぢ)はヨナの子シモンなり 爾はケパと稱(となへ)らるべし ケパを譯(とけ)バ ペテロなり
これは「名前、何だっけ?」になるわね。
小僧仙吉は導かれるように座敷に入り、念願だった鮨を食べる…
かみさんの計らいで、誰にも見えないよう障子を閉め切ってもらって…
仙吉はそこで三人前の鮨を平らげた。飢え切った痩せ犬が不時の食にありついたかのように彼はがつがつと忽(たちま)ちの間に平らげてしまった。他に客がなく、かみさんが故(わざ)と障子を締め切って行ってくれたので、仙吉は見得も何もなく、食いたいようにして鱈腹に食う事が出来た。
三人前の鮨を平らげる…
これのことですね…
『磔刑図』アンドレア・マンテーニャ
そして「誰にも見られずに食う」ということは…
ここでの小僧仙吉は目に見える「神の子」ではなく、誰にも見ることの出来ない存在になっているということ…
つまり、生贄を捧げられた「父なる神」に…
しかも志賀は答えも書いていた。
この場面で唐突に出てくる「犬」は「GOD」のこと。
「GOD」を「DOG」として描くのは、芸術作品の定番中の定番だ。
そういえば、『フランダースの犬』と『ライフ・オブ・パイ』って、そっくり。
パトラッシュがリチャード・パーカーに置き換わってるだけよね。
どっちも「トラ」だけに。
可哀想な少年ネロは…
ルーベンスの絵画『聖母被昇天』に、なき母を重ね…
『聖母被昇天』
ピーテル・パウル・ルーベンス
可哀想な少年パイは…
宇宙のようにどこまでも深い海に、亡き母を重ねた…
そして少年ネロは『キリストの昇架』を見て…
『キリストの昇架』
ピーテル・パウル・ルーベンス
誰にも理解されることなく、無実の罪を被せられて死ぬキリストを自分に重ねた…
だから少年パイも『キリストの昇架』を見て…
キリストを自分に重ねた…
『フランダースの犬』も『ライフ・オブ・パイ』も「小僧の神様」だわ…
小僧の姿をした神様…
そして小僧仙吉が三人前の鮨を食べ終わった頃、かみさんが部屋に入ってくる。
茶をさしに来た かみさんに、
「もっとあがれませんか」と云われると、仙吉は赤くなって、
「いえ、もう」と下を向いてしまった。そして、忙しく帰り支度を始めた。
茶をさしに来た…
これは「槍をさしに来た」ですね…
『ロンギヌスの槍』フラ・アンジェリコ
仙吉が急いで帰り支度を始めた理由は?
あの時イエスの処刑を見物していた人たちが、早く帰りたがっていたから…
そのためにロンギヌスが、槍でイエスの腹を刺した…
そして かみさん は仙吉にこんなことを言う。
「それじゃあネ、又食べに来てくださいよ。お代はまだ沢山頂いてあるんですからネ」
それに対する仙吉のリアクションは…
仙吉は黙っていた。
お代をいくら置いていったか、わかるわよね?
銀貨30枚…
くら寿司並みに当分食べ放題ですね…
さらにかみさんは、こんなことを尋ねる。
「お前さん、あの旦那とは前からお馴染みなの?」
イエスはヨハネを知らなかった。
『ヨハネ伝』でイエスとヨハネが会うのは、後にも先にも洗礼の場面だけ。
だから仙吉の返事も「いえ」だった。
そして、かみさんは、とっておきのジョークを言う。
「粋な人なんだ」
ジョーク?
だってヨハネは、ラクダの毛皮を着て、イナゴを食べ、荒野で暮らしていたんだよ。
どう考えても「野暮」なのに、その反対の「粋」だと言ったんだ。
実際Aも全然「粋」じゃなくて「野暮」だった。
『洗礼者ヨハネ』
サンドロ・ボッティチェッリ
なるほど…
そして第六場のオチじゃ。
仙吉は下駄を穿(は)きながらただ無闇とお辞儀をした。
落ち?
実はここで初めて「下駄」という言葉が登場する。
秤屋、Sの店、鮨屋と、何度も履いたり脱いだりしているのにも関わらず。
志賀は第六場のオチに使うために「下駄」を取っておいたんだね。
なぜ「下駄」がオチになるのでしょう?
この預言だよ。
『ヨハネ伝』第1章で、ヨハネがイエスのことについて語った有名なセリフ。
27 我に後(おく)れ來(きた)りて我に優(まさ)れる者とは是(これ)なり 我は其履(そのくつ)の紐(ひも)を解くにも足(たら)ざる者なり
私の後に来て、私よりも優れる者とは、この人のことである。
私のような者には、この人の靴紐を解くことすら出来ない。
だから小僧仙吉は「下駄」を履いていた。
紐を解かずに脱いだり履いたりできるから。
そう来たかァ…
すべてのセリフや文に何かしらの仕掛けがあるのね…
パッと見、なんてことのない文章なのに、実は全部ネタ…
そこが志賀の「小説の神様」たる由縁だ。
志賀の文章は、とんでもなく恐ろしい。
「ただ思いついたことを書いてるだけ。中身がない」と感じる人もいれば…
「緻密に計算された完璧な作品。すごいことが書いてある」と感じる人もいる…
志賀直哉
額にハエがとまっているにも関わらずカッコつけてたのは伊達じゃないんですね…
あれを恥ずかしいと思ってはいかん。
「おいしい」と思わねば。
道端でウンコ踏んだ時と一緒(笑)
それでは第七場を見てみよう。
志賀のジョークがますます冴えわたるシーン…
Y夫人とAの細君の登場だ…
つづく
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?