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不合格は何も与えてくれないのか。悔しさが教えてくれた悔しさの意味
起業して5年目。思い通りにいかないことも多いけれど、そのたびに新しい学びがある。今回もまた、ひとつ悔しい経験をしたので、書き残しておこうと思う。
ことの発端はあるプログラムへの応募。主旨に合うと思い、ダメ元で応募書類を提出。運良く書類審査の選考を通過し、2次審査。2次審査はオンライン面談。思いのたけをぶつけて、期待していなかったものの何と通過。
そして、いよいよ最終審査。東京の審査会場で、審査員の前に立ち、事業案をプレゼンテーション。事前の準備からやれることはやろうと、全力を尽くした。
しかし、結果は不採択だった。
応募は数百ほどあったそうで、おそらく最終審査に進んだのは10社以下。選ばれるのは5社。あと少しのところで、結果を掴むことができなかった。
正直、悔しかった。
最終審査の場では、審査員からは似たような質問がいくつも出た。普段とは少し違う言い回しをしたせいか、相手が納得するような回答ができなかったように感じた。
審査のプレゼンが終わった後、その違和感を強く感じていた。
過ぎたことを後悔しても仕方ないと思ったが、「なぜ大事なことを伝えられなかったのか?」や「あの時にもっとこんな伝え方をできていたら良かったのでは?」と、何度も頭をよぎった。
同時に、これが今の自分の実力なのだとも思った。
臨機応変に伝える力が足りなかったこと、緊張してうまく自分を出せなかったこと。その現実を、悔しさとともに受け止める必要があった。
私は、俗に言う一般企業と呼ばれる会社での会社員経験はない。医療職として働き、専業主婦から自宅で独立し、Livelyを創業するに至った。しかし、どんなバックグラウンドであろうが、勝負の世界では全く関係ない。
思えば、4年前は、ビジネスピッチの場に立つこと自体、場違いだと思っていた。場違いな場所に立てただけで自体が自分にとっての成長の証でもあり、満足していたのかもしれない。なので、評価されなくても当たり前、心のどこかで「そりゃそうだ」と思っていたのかもしれない。
でも、今は違う。
「私たちの活動には価値がある」、「この挑戦が、未来を切り開く」と、強く信じている。
そう信じて疑わないからこそ、悔しかったのだ。そう信じてくれている人が自分だけではないからこそ、悔しかったのだ。
LivelyTalkのホストたち、運営メンバー、そして社外で応援してくれるたくさんの人たち。みんなと一緒にLivelyの事業をさらに加速させたかった。リーダーとして結果を残せず不甲斐ない気持ちになったのだと思う。
そんな想いを抱えている時、事前に相談にも乗ってもらっていた尊敬する先輩経営者に結果を報告した。
この方は、2002年に会社を創業し、 女性の働き方改革という社会課題に着目し、社会がまだ変革の必要性を認めていない時から、ずっと多様な働き方の推進や、働く人の幸せを実現するという信念をぶらさずに貫き続けて、ついに社会を振り向かせて、会社を上場させるにまでいたった人で、私たちの事業にも多大な理解を示してくれていて、応援もしてくれている人だった。
私は、その姿勢に、尊敬の念を抱いていた。結果を報告すると、すぐにメッセージを返してくれた。
「評価される場所に身を置くことも勇気が必要です。ご苦労様でした。これをまた機会に大きな成長につながると思います。」
この言葉が、心に響いた。
もし、専業主婦のままでいたら、得意な家事を続けるだけだったら、社会を振り向かせようともしていないし、この悔しさを味わうこともなかっただろう。
でも、挑戦したからこそ、この感情に出会えた。挑戦しなければ、評価されることもなかった。
挑戦する姿そのものが、未来をつくる。
LivelyTalkの聴き手であるホストたちにも、不採択の報告をした。
実は、最終選考会に参加するまで、ホストたちには黙っていた。「結果が出なければ意味がない」 と思っていたし、「もし失敗したら、がっかりさせてしまう」というような思いがあったからだ。
でも、そんな迷いや葛藤の中で気づいた。
挑戦する姿そのものが、未来をつくるのではないかと。
ホストたちの活動を見ていて、そう思えた。自分がホストとして結果を残すだけではなく、日夜Livelyを、LivelyTalkを、どうすればもっと多くの人に知ってもらって、使ってもらって、喜んでもらえるのか、そんなことを考えて、取り組んでくれている。
ただのパートナーではなく、同志なのだと思えていた。だから、どんな結果になるかわからない挑戦する姿、結果を残せずカッコ悪いリーダーの姿も隠さずに共有することにした。
みんなからどんな反応があるか心配だったが、心配は杞憂に終わった。
「私も悔しい」、「どんな結果でも、大丈夫です!」、「アクティブリスニングの可能性を信じてます」といった同じ志をもっていることを感じられる仲間の言葉はとても励みになった。
子どもたちも、それぞれの優しさで。
結果を知ったあと、自宅に帰っても悔しさでいっぱいだった。
私は、ご飯を作りながら、あまり深刻にならないトーンで「こないだお母さんが話してたやつ、ダメだったんだ。母は悔しいです!笑」と子どもたちに向かって話を切り出した。
洗濯ものを畳んだり、宿題をしていた子どもたちが一斉に、料理をしている私の顔を見た。
小学3年生の次女は、「お疲れさま!でもまた挑戦したらいいじゃない。今日はいっぱいおしゃべりして元気だそう。」と私の話を聴いてくれようとした。
「でも、まただめだったらショックじゃない・・・?もう挑戦するのやめた方がいいんじゃない?」と私が傷つくのを、小学1年生の三女は心配してくれた。
真逆な言葉ではあるが、それぞれの優しさで私のことを思ってくれたことが伝わってきた。
きっと、これから彼女たちも、できないことにぶつかる場面がある。そんな時、「お母さんもよく挑戦してたな」、「それでも楽しそうにしてたな」、「挑戦した方が、人生楽しそうだな」と、一番近くで感じてもらえる存在になりたい。
悔しいのは喜ばしいことはでないのだけど、挑戦して良いことしかなかったなと思える。人から評価されるためにやるわけではないけど、人からの評価から逃げずに挑戦しつづけていこうと思う。
P.S 私のように悔しい気持ちをひとりで受止められないとき、だれかに話したくなったときはLivelyTalkで吐き出してください。