石川啄木が泣き濡れた「東海の小島の磯」はどこにあるのか?
写真は函館の大森浜の啄木像(函館市公式観光サイトより)
歌集『一握の砂』より
東海の小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて
蟹とたはむる
啄木の歌集『一握の砂』の冒頭に置かれた有名な短歌である。ところが、「東海の小島の磯」がどこなのかが定かではない。啄木の個人史にてらせば家族と一時期を暮らした函館の大森浜とされるが、個人の状況を詠んだとすると、大のおとなが泣き濡れて蟹とたわむれるとは、あまりにいじましいので、この歌は嫌いだという人もある。
しかし、そのオーバーアクションなところが外国人にもわかりやすいのか、啄木の歌は多くの国で翻訳され、国際啄木学会という団体もある。その国際啄木学会編『石川啄木事典』(おうふう2001)では「東海」は日本のこととし、土井晩翠の「嗚呼東海の君子国」(詩「富嶽之歌」)をひいて近代の愛国主義と関連するものとしている。しかし、近代ナショナリズムの高揚した気分の「東海」が、この歌の「東海」につながるだろうか。
『一握の砂』は明治43年(1910)12月刊で、緒言に「明治四十一年夏以後の作一千余中より五百五十一首を抜きてこの集に収む」とある。啄木はそれ以前の明治四十年に故郷の岩手県渋谷村での小学校代用教員の職を辞して函館に移ったが、まもなく函館に母と妻と、まだ幼児の娘を残したまま札幌、小樽、釧路と転々とし、明治41年4月に上京。小説で身を立てようとしてうまくいかず、生活は貧窮した。そんな時期の同年6月に啄木は多数の短歌を『暇ナ時』と表紙に書いたノートに書きつけている。そこに掲題の「東海の小島」の歌もある。
その歌稿群には異様な情景を詠んだ歌がある。そこから四首をあげる。
人みなが怖れて覗く鉄門に我平然と馬駆りて入る
牛頭馬頭(ごずめず)のつどひて覗く大香炉中より一縷(る)白き煙す
大海に浮かべる白き水鳥の一羽は死なず幾千年も
西方の山のかなたに億兆の入日埋めし墓あるを思ふ
「平然と馬駆りて入る」という鉄門は、思想犯を収監した監獄の門とする解釈がある。『一握の砂』が刊行される明治43年6月には社会主義者の幸徳秋水らが天皇暗殺を企てたという大逆罪で逮捕され、翌年1月に12名が処刑されるという大逆事件があった。啄木の歌人仲間に幸徳秋水らの弁護人だった平出修がいる。秋水らの処刑後、平出宅で裁判の記録を見た啄木は「頭の中を底から搔き乱されたやうな気持で帰つた」と『日記』(明治44年1月26日)に書いている。義憤にかられて「我平然と馬駆りて入る」という心境になったかもしれない。
しかし、歌稿ノート『暇ナ時』の短歌群は大逆事件以前の作である。「牛頭馬頭のつどひて覗く大香炉」の牛頭馬頭は地獄の鬼だから、「人みなが怖れて覗く鉄門」も地獄の城門を意味する。地蔵十王経に冥土の閻魔王宮は高い鉄の城壁に囲まれていると説かれており、民間にもそのように伝承されてきた。死者は鉄門の中で閻魔大王に裁かれて責め苦をうけることになるのだが、人は誰しも罪なくして生きられない。啄木は逃げることなく「我平然と馬駆りて入る」。しかし、その地獄の大香炉にも「一縷(る)白き煙」が立っているところに救いがあり、「大海に浮かべる白き水鳥」につながる。
変転かぎりない波濤の大海にも幾千年も死なない白い水鳥が浮かんでいる。そして、「西方の山のかなたに億兆の埋めし墓あるを思ふ」は西方十万億土の極楽浄土と、過去に死んでいった無数の人々を思うのだろう。啄木は寺に生まれたので身近に墓地があり、地獄や極楽浄土のことは幼いときから聞いて育ったはずだ。「東海の小島の磯」も、そこに通じる景色なのだろう。
日本はインド・中国からみると東海の辺境である。平安時代末期に末法意識が深まると、日本は東海の粟散国(ぞくさんこく/粟粒を散らしたような小さな島国)だといわれた。親鸞も師の法然のことを「粟散片州に誕生して念仏宗をひろめしむ」(『高僧和讃』)という。日本列島は実際には大きな島々であるにもかかわらず、このあたりから東海の小島だという認識が広まった。
この末法辺土の人は果てしない苦海にただよっているとも思われた。そして磯とは、波濤が打ち寄せる荒々しい岩場である。清らかな白砂がたまる場所はあっても「いたく錆びしピストル出でぬ/砂山の/砂を指もて掘りてありしに」(『一握の砂』)という恐ろしいものも埋められてあり、「ひと夜(よ)さに嵐来りて築きたる/砂山は/何の墓ぞも」(同)という生死(しょうじ)の渚である。
歌集『一握の砂』を編むにあたって啄木は歌稿ノートにあった「怖れて覗く鉄門」「牛頭馬頭のつどひて」の歌は採らず〈あの世〉イメージを薄めている。死生観から死が抜け落ち、もっぱら人生がテーマになった近代文学の評論でも、「東海の小島」の歌に啄木の人生をたどって恋と女性遍歴を読みとる解釈がある。恋は万葉の昔から和歌の主題なので恋にからめて歌をつくり、解釈も恋に寄せる傾向は強い。しかし、元の歌稿群のなかで見れば、「東海の小島の磯」は辺土の苦海の渚である。その磯で人は泣き濡れ、無常のひとときを蟹とたわむれている。そのように読める。
『一握の砂』の刊行は長男の真一が生後二十三日で死んだ年だった。この歌集は「かなしくも/夜明くるまで残りゐぬ/息きれし児の肌のぬくもり」という歌でおわる。その後、 啄木自身も結核にたおれ、26歳で逝った。
【啄木】1886〜1912年/本名は石川 一(はじめ)。曹洞宗僧侶の石川一禎の長男。岩手県渋谷村の曹洞宗宝徳寺で育つ。学業優秀で岩手県立盛岡中学校に入学するが、社会主義思想に共感することもあって生活が荒れ、明治35年(1902)に中途退学。職業も住居も転々とするうちにひどく貧窮。明治四十二年に東京朝日新聞社の校正係の職を得て函館から家族を呼び寄せるが、それまでに積もった借金の返済と自身の事故破壊的な放蕩が重なって生活苦はつづいた。明治45年4月13日に病没。同年6月に第二歌集『悲しき玩具』が刊行された。
この啄木の短歌については拙著『仏教百人一首 万葉の歌人から宮沢賢治まで』(法藏館)に取り上げた。
末法について詳しくは地人館e-booksの『原文と現代語訳 末法燈明記』(末法灯明記)をご参照ください。