「幸せになりたい」の「幸せ」は一体どんな姿をしているんだろう。
この年の瀬に父が風邪をひき、大掃除も年末の買い出しも全部私がやるのか…と軽く絶望に襲われているオカダですけれども、こんばんは。
たしか5年ぐらい前にも同じようなことがあって、父が寝込んでいる寝室の窓を外からせっせと拭いたっけ。
この家、無駄に窓が多いから、例年は父と半分ずつ掃除するんだけど、今年はひとりでやるしかないのか…。
もう今年は窓拭きしなくていいかなあ。
だって別に窓を拭こうが拭くまいが、新年は来るわけだし。
ねえ。いいよねえ(見えない誰かに同意を求める)
さて、今日ふらふらと街を歩いている時にふと「ああ、幸せになりたいなあ」と思ったんですよ。
目の前をものすごく幸せそうな人が通ったわけでもなく、逆に不幸そうな人が座っていたわけでもなく、ただ冷たい風で落ち葉が舞い上がる中を歩いていたら猛烈に「幸せになりたい」「そろそろ本気で自分の幸せを追求したい」と思ったんです。
でも次の瞬間「はて、幸せってなんだろう。一体どうなったら『私は幸せです』って言い切れるんだろう」と考えて立ち止まってしまった。
たぶんこの世の誰しも「幸せ」になりたいと思って生きていると思う。
じゃあ何が幸せか?って考えたけど、きっと「幸せ」って人の数だけ形がある。
たとえば、豪邸に住んでブランドものを買い漁ることを幸せだと思う人、
愛する人と一緒に暮らして、誕生日には花束をもらうような生活を幸せだと思う人、
ハワイで海を見ながら朝ヨガやって、洒落たカフェでランチしてサンセット見ながら海沿いを散歩することを幸せだと思う人、
自宅の庭に沢山の花を植えて、それを手入れすることを幸せだと思う人、
自分が作り出す作品で誰かが喜んでくれることを幸せだと思う人、
海外の僻地に行って、誰も知らない景色を見つけることを幸せだと思う人。
このそれぞれが誰かにとって「幸せ」でも、別の誰かにとっては興味のないことだったりするし、はたから見て「幸せそう」と思っても実は本人がそう思ってなかったりすることもあったりする。
お金、名誉、家族、愛し愛されること、経験、知識、支配欲などなど。
どこに、何に「幸せ」を感じるのか。
それは自分で見つけるしかない。
世の中には「幸せのテンプレ」みたいなものがあって(例:大きな家に住むとか)、そこを目指しがちだけど、本当に自分はそれを望んでるのかどうか、その見極めも大切だと思う。
人から見て「幸せそう」じゃなくて、自分が「幸せだ」と思えるところ、そこを探して見つけなきゃいけない。
それは多分、自分にしかできないこと。
はて。私の幸せは一体なんだろう。
どんな姿をしているんだろう。
愛?お金?それとも…??
「幸せになりたい」という望みは、思いのほか奥深く難しいものだなあ。
そういえば、かのbacknumberさんは、「瞬き」という曲の中で「幸せ」についてこう謳っている。
素晴らしいエモさ。
でもやっぱり、誰か「大切な人」がいないと幸せは成り立たないのだろうか。困ったなあ。